「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面

北朝鮮の人権問題を追及している民間団体が北朝鮮国内で公開処刑が行われた場所などを示したマップを作成し、15日に報告書を発表した。

韓国・ソウルに本部を置く「転換期正義ワーキンググループ(Transitional Justice Working Group=TJWG)」は、北朝鮮の政権が行っている人権侵害を記録することで、そのような行為をやめるよう警告すると同時に、将来的な加害者の法的処罰の可能性を高める目的で、このプロジェクトを進めてきた。報告書の発表は、2017年7月と2019年6月に続き3回目。

「金正恩期の処刑マッピング」と題された今回の報告書では、脱北者の証言442件を分析。国際社会の監視の目を避け、国境から離れた場所で公開処刑を行っていることなど、金正恩政権期になって見られるようになった特徴を列挙している。

最も残虐な処刑

その中に、いかにも金正恩総書記が好みそうな演出がなされた例がある。

報告書で言及された目撃証言によると、その出来事は2013年頃のある日、首都・平壌の近郊で起きた。一度に16人が公開裁判に引き出されたことがあったというが、各自の罪状はつまびらかでない。

いずれにせよ、死刑判決が予想される重罪だったようだ。公開処刑が頻繁に行われる河川敷などで判決が言い渡される場合、被告も見守る人々も、銃殺刑が即時執行されると考え緊張する。もしかしたら被告らも、それ以前に公開処刑を見せられたことがあったかもしれない。

例えば同年8月、姜健総合軍官学校の射撃場で銀河水管弦楽団と旺載山(ワンジェサン)芸術団のメンバーら9人が銃殺された例がある。銀河水(ウナス)管弦楽団は、金正恩総書記の夫人である李雪主(リ・ソルチュ)氏がかつて所属していた楽団だ。

機関銃でズタズタに

処刑されたメンバーらは、ソルチュ氏に「元カレ」がいたことを示す「証拠写真」を回し見したとされ、これが、罪に問われたと言われている。脱北者出身で、韓国紙・東亜日報記者のチュ・ソンハ氏によれば、メンバーらは丸太に縛り付けられ、1人に対しAK47自動小銃から90発が撃ち込まれたという。口径7.62ミリの小銃弾を90発も浴びせたら、人体は文字通りズタズタになる。

当局はその様子を、射撃場に集めた芸術関係者数千人に見せつけた。前列で見ることを強要された女性歌手らの中に、失禁しなかった者はいなかったという。

そして当局はさらに、芸術関係者たちに死体を近くで見るよう強要した。「彼らが、数日前まで一緒に笑い合っていた友人や同僚の血と肉片を踏みながら感じた恐怖を、いかに文章で表現できようか」と、チュ記者は書いている。

それにしても、人々がこれほど無残に殺されねばならないほどの「証拠写真」とは、どのようなものだったのか。
チュ記者は、「内幕を良く知る脱北者によれば、ソルチュが学生時代の彼氏といっしょに、万景台少年宮殿の隣の芝生の上で肩を抱き合って撮ったものらしい」と説明している。他愛もないものだ。こんなことが、人間が殺される理由になどなり得ない。

いずれにしても、北朝鮮にはこうした残酷な場面を見せつけられた経験を持つ人が少なくないのだ。

しかし、本題に戻ると、件の公開裁判では、死刑判決は6人に対してのみ言い渡された。

ファーストレディも

ほかの10人に対して当局者は「罪がないからではなく、『最高指導者(金正恩氏)の許し』により処罰しない」旨を宣言したという。現場にいた人々は驚愕した。残酷きわまりない公開処刑の場を、金正恩氏の「慈悲深さ」をアピールするショーの舞台に変えたのだ。これと同時期、別の都市でも女性15人を引き出した公開裁判で、似たようなことがあったという。

死刑を免れた被告やその家族が、卒倒せんばかりに泣き崩れたであろうことは想像に難くない。

北朝鮮は金正日政権期まで、最高指導者を神秘的なベールで覆い、その権威を庶民から遠く離れたところに置いていた。しかし金正恩政権になってからは、様相が変わった。先代までと異なって、視察にはファーストレディを帯同し、その様子を国内メディアで公開した。報道される金正恩氏の表情も、怒ったり泣いたり笑ったりと様々になった。

つまりは「あけっぴろげな自己PR」が、金正恩氏の宣伝戦略の特徴と言えるのだ。(参考記事:女性芸能人たちを「失禁」させた金正恩氏の残酷ショー

しかし今までのところ、北朝鮮から漏れ伝わる庶民の評価の中に、「金正恩元帥様は慈悲深い」といった声はひとつも見当たらない。先々代や先代の最高指導者よりも、さらに残虐と言える公開処刑を乱発しているのだから当たり前だろう。

また、先代の最高指導者だった故金正日総書記は、派手な女性遍歴で知られる。明らかになっているだけでも5人の女性が彼の妻(あるいは愛人)となり、うち4人が彼の子どもを生んでいるが、妻たち以外に何人の女性と関係を持っていたかについては、推測に基づく数字すら出ていない。しかし、世間によく知られた人物もいる。絶世の美女と言われた女優の禹仁姫(ウ・イニ)氏がそうだ。

著名な脚本家である夫のリュ・ホソンとの間に2人あるいは3人の娘をもうけていた彼女は、非常に開放的な性格の女性だったという。

日本出身の男

そして、高級幹部や裕福な日本からの帰国者たちの間では、彼女と様々な男性の噂が絶えなかった。

60〜70年代、北朝鮮映画界にトップスターとして君臨していた禹仁姫(ウ・イニ)氏の愛人の1人が、日本出身の帰国者で、平壌市普通江(ポトンガン)区域新原洞(シノンドン)に住んでいたA氏だ。彼の父親は在日本朝鮮人総連合会系の商工団体幹部だった。

一説によると、父親はトラブルメーカーだった息子の性根を叩き直したい一心で、金日成主席に頼み込み、A氏を北朝鮮に送り込んだと伝えられている。

すべてを「酒と女」に

一方、脱北者で、朝鮮日報の記者を務めた姜哲煥(カン・チョラン)氏はA氏の「ドラ息子説」を否定している。京都に住んでいた姜氏の家族は、A氏と同じ船に乗って帰国した縁で親しく付き合い、とくに姜氏の伯父は、金日成総合大学哲学科でA氏と同期だったという。A氏は誠実かつ勉強熱心で、誰よりも北朝鮮での暮らしに適応していたと姜氏は語っている。

ところが、父親が甘やかしたからか、北朝鮮での暮らしが予想以上にストレスの強いものだったからか、A氏は徐々に堕落していったという。金日成氏からもらった平壌市内の高給マンションに住み、父親から送られてくる生活費はすべて酒と女に費やしていた。

「高級服」で誘い出す

金日成氏はより多くの外貨を確保するために、日本からの帰国者に限り、自家用車の所有を認めた。A氏は父親のカネで買ったベンツを乗り回していた。また、彼の父親が、北朝鮮の放送設備を最新式の日本製に入れ替えたことへの褒美として、A氏は朝鮮中央テレビの技術部長のポストに就けられた。放送技術については全くの門外漢だったにもかかわらずだ。A氏は1980年2月、外貨商店で売られていた高級服をネタにして禹仁姫氏を誘い出した。そして2人は、中央テレビの駐車場に停めたベンツの車内で事におよんだ。事はあっさりと終わり、2人はヒーターをつけっぱなしにした状態で眠り込んでしまった。

翌朝、A氏が姿を見せないことに気づいた局員が表に出た。そして、駐車場に停められた車の中で、半裸のA氏が死んでいるのを発見した。隣にいた禹仁姫氏は、病院に運ばれ、なんとか一命をとりとめた。

A氏の父親は「うちの息子を生きて返せ。さもなくば資金提供をやめる」と言って激怒したと伝えられている。

父にバレるのを恐れ

健康を取り戻した禹仁姫氏は、取り調べを受けることになった。ところが彼女の口からはは、それまでに関係を持ったという党、軍、撮影所の幹部ら数十人の名前が次から次へと出てきた。そして、「金正日同志に会わせてほしい」と繰り返し懇願した。金正日氏の名前を出せば、彼が助けてくれると思ったのだろう。

一方の金正日氏は、禹仁姫氏との関係が父である金日成氏にバレることを恐れていた。同時に成蕙琳氏と高ヨンヒ氏も、放っておけばいつ禹仁姫のようなことをするかわからないと考えるようになった。

後継者に指名され、多忙を極めていた彼は、3人の女性を「管理」するのは無理だと考えたのだ。

恐怖に駆られた金正日氏は禹仁姫氏を処刑することにした。そして、それをほかの2人の女性に見せれば、恐ろしくなり、おとなしくするだろうと考えたのだ。禹仁姫氏は「浮華罪(スキャンダル罪)」という罪状で、映画界や芸術関係者が見守る中で銃殺された。

姜哲煥氏は、韓国の朝鮮日報の記事に、次のように記している。

実際にこの処刑を目撃した脱北者が2人いる。ダンサーのシン・ヨンヒと北朝鮮第2科学出版社政治扇動部で記者を務めていたキム・ギルソンだ。

何のことかわからないまま集められた人々は、禹仁姫氏の姿を見て唖然とした。やがて「裁判」の名の下に罪状の読み上げが始まり、彼女は、夫と娘の目の前で自動小銃で銃殺された。あまりに酷い有様に、夫と娘はそれから数日、魂が抜けたようにぼーっとしていたという。

禹仁姫氏の娘のその後について詳細はわかっていないが「私は党を裏切った母とは違って、党に生涯、忠誠を尽くす」と誓い、地方の工場への追放を受け入れたという説がある。それとは別に、「芸術家として暮らしている」という説もある。

夫のリュ・ホソンは、妻が銃殺されるのを目の当たりにして、気を失ったと伝えられている。妻の浮気に耐えかねて何度も離婚しようとしたが、なかなか認められずに臍(ほぞ)を噛む思いをしていたところで、妻は銃殺されたのだ。

彼は地方に送られたが、演出家としての優れた才能を惜しんだ金正日氏により平壌に呼び戻された。

北朝鮮を代表するイデオローグで、1997年に韓国に亡命した黄長燁(ファン・ジャンヨプ)元党書記の秘書を務めたキム・ヘスク氏は、著書『悲運を予告する』で、禹仁姫氏の銃殺について次のように描写している。

私たち放送芸術団の団員はバスに乗せられた。ピクニックにでも行くとばかり思っていた。ところが、目の当たりにしたのはあの光景だ。思い出すと未だに身震いがする。

平壌の文化芸術人がすべて集められた。彼女は思想闘争大論争大会の場に立たされていた。傍らには、夫、そして私の友達である彼女の娘2人、家族全員が座らされていた。

「反党、反革命分子、禹仁姫銃殺!」

その日、彼女が着ていたツツジの柄のジャケットは、数十発の銃弾で穴だらけで、血まみれになり、もはや形を留めていなかった。

夫は、銃殺が終わるまで頭を上げることはなかった。反省の弁を述べることを強いられた彼は「よく死んだ」と言った。

ところが長女は「私は母を恨まない。母は何でもよくしてくれた」と語った。

韓国の作家、李清(イ・チョン)は2008年、禹仁姫氏をモデルにして小説『神の女』を著した。

その中ではある放送局員の目を通して、彼女の最期の姿が描写されている。詳細は不明だが、おそらく実際に現場を見た脱北者の証言を元にしたものと思われる。その一部を紹介する。1980年代の初めの頃だったろうか。いつも通りに出勤してカバンを置いた瞬間に「全員集合」と非常招集がかけられた。

下に降りてみると、インド製のタタのバスが3台停まっていた。目的地の説明はなく、ともかくバスに乗れと言われた。バスは中央放送の局舎を出て、リョンモッ洞の方に向かった。

「どこに連れて行かれるのだろうか」
「さあ…」

すると、音楽組織部の男性が答えた。

「君たち、どこに行くか知らないのかい?」
「え?どこに行くの?」「親愛する指導者同志(金正日)のご配慮で、最近ソ連から取り寄せた特殊武器を我々だけに見せよという指示を下されたそうだ」
「え?新型武器を見に行くの?」
「そうらしいぜ。さすが指導者同志の大きな恩徳は何物にも比べられないな」

バスは、リョンモッ洞を過ぎ、兄弟山区域へと向かっていた。1時間後、我々は車から降ろされた。

「ここはどこ?」
「さあ…」
「知ってるよ。江健軍官学校の近所だよ。昔、訓練を受けたことがあるんだ」音楽編成部のキム君は、確かに江健軍官学校に通った経歴を持っていた。除隊してわが局に入局したのは3年前のことだった。

周りは低い山々に囲まれた、小さなトウモロコシ畑。新型武器を見せるにはおおよそふさわしくない場所を見て、おかしいと思った。

その場には文化芸術部はもちろん、出版報道部門の職員も全員集められていた。しかし、何が起きるかを知る者はひとりとしていなかった。

30分後、69型ジープがゆっくりした速度で入ってきた。そして軍服姿の人が数人降りてきた。すると、その場に白幕を張り始めた。畑の端には、柱が2本立てられていた。

その中に、もう1台の車が入っていった。中で何をしているのかはわからないが、何人かが行ったり来たりしていた。

しばらくすると、判事らしき人物が書類を持って人々の前に立った。

「これから、反党、反革命分子の禹仁姫に対する最終判決が下されます」

人々の間にどよめきが走った。そして、白幕が外された。あまりに予想外の光景に、皆が言葉を失った。たしかにソ連製の新型武器がそこにはあった。しかし、皆の視線は柱の方に集まった。

濃い土色のツーピースを着た女性が、柱にぐるぐる巻きにされていた。

判事らしき人物が、文書を読み上げ始めた。

「反党、反革命分子の禹仁姫は…」彼女は17歳から不倫をしていた。そして数多くの家庭を破壊した。反党、反社会主義分子につき、死刑に処すとのことだった。7人ほどの射撃手が現れた。

判事は「3発撃て!」と号令した。3発どころではなかった。1人あたり20発は撃っただろうか。

金正恩は「喜び組」も処刑

私は一番前に座っていたが、それでも彼女との距離は100メートルほどあった。彼女の表情は見えなかった。ただ、ボロキレのように変わり果てた姿が柱にくくりつけられていた。彼女の遺体は車に乗せられた。それが私が見た彼女の最期の姿だ。

(参考記事:女性芸能人たちを「失禁」させた金正恩氏の残酷ショー

北朝鮮の女優・禹仁姫(映画「春香伝」)

一方、金正恩氏もまた、「愛人の女優」を処刑している。

同氏は2013年12月、叔父にあたる張成沢(チャン・ソンテク)国防副委員長を処刑し、世界に衝撃を与えた。それに続き、張氏の家族、親戚、部下など多くの人々が粛清されたと伝えられている。

その中に、一時は北朝鮮の銀幕スターだった女優キム・ヘギョンがいる。キム・ヘギョンの生い立ちは詳らかでないが、脱北者で平壌中枢の人事情報に精通する李潤傑(イ・ユンゴル)北朝鮮戦略情報センター代表によると、彼女の元々の所属先は朝鮮労働党中央の組織指導部5課、つまりは「喜び組」だったという。

「喜び組」として注目の的

1997年頃、北朝鮮映画界でスターとなった彼女は、20代後半から30代前半のとき、護衛司令部の幹部を父に持つ貿易会社の社長と結婚し、2人の息子をもうけた。美貌と知性、演技力、人気に加え、権力まで手にした彼女は、徐々に堕落してゆく。

(参考記事:【写真】女優 キム・ヘギョン――その非業の生涯

最高指導者に仕える奉仕員、喜び組のメンバーとして教育を受けた彼女は、高級幹部の間でも注目の的となった。夫や子どもを顧みず、朝鮮労働党作戦部所属の連絡所長(工作員の指揮官)など数多くの幹部と浮名を流した。浮気相手と、同棲したことすらあったようだ。

そんな彼女に最初の危機が訪れた。夫が麻薬を使用した容疑で当局に摘発されたのだ。彼女は職場から追われた夫と離婚し、強力なバックを失ってしまった。その頃に出会ったのが、張成沢だった。

2人が深い関係となるのに、時間はかからなかった。しかしそれも、張成沢の処刑というあまりに衝撃的な出来事で幕が降ろされた。

冷蔵庫の中に…

かつては北朝鮮の権力中枢でも「実力ナンバーワン」と言われた愛人の威光を背景に、違法な蓄財に励んでいた彼女は、自らの身に迫りくる危機を察知し、張成沢が処刑された直後の2013年12月中旬、朝鮮労働党の組織指導部に自首して5万ドルを当局に差し出した。全財産を差し出すことで、命乞いをしようとしたのだろう。しかし、それは組織指導部が調査を通じて見積もっていた彼女の隠し財産と比べ、あまりに少なすぎる額だった。

家宅捜索に踏み切った組織指導部は、4〜50万ドルの現金と、相当量の金(ゴールド)を発見した。しかもそれらは、財産を隠匿する目的で作られた特注の冷蔵庫の中にあった。

「この世の地獄」に

そればかりではない。彼女には、現金やマンション4戸を含むさらなる隠し資産があったのだ。組織指導部は、彼女に対して加重処罰の処分を下し、隠し子と共に政治犯収容所送りにした。しかも彼女が送られたのは、「この世の地獄」とも言われる、一生釈放されることのない「完全統制区域」だった。ただし、前夫との間に生まれた2人の息子は今でも平壌で暮らしていることが確認されている。(参考記事:【写真】女優 キム・ヘギョン――その非業の生涯

ただ、北朝鮮のサイトに彼女が出演した映画が残されていることを考えると、女優キム・ヘギョンは完全に消し去られた存在ではないようだ。(参考記事:将軍様の特別な遊戯「喜び組」の実態を徹底解剖

そもそも、「喜び組」とは何だったのだろうか。

「夜の奉仕」も

張成沢氏は生前、何回かの「革命化」を経験したことで知られる。

革命化は、素行に問題ありとされた幹部らに施される再教育のことだ。数カ月から1年、あるいは数年もの間、農村や工場に労働者として派遣され、苦労を強いられる。北朝鮮における高級幹部と末端労働者の生活水準の格差は、日本のそれよりはるかに大きい。ぜいたくに慣れた幹部らは革命化で塗炭の苦しみを味わい、最高指導者と体制に対する「忠誠」を誓わされるのだ。張成沢氏が初めて革命化を経験したのは、金正日総書記の片腕として台頭していた1970年代末のことだった。韓国の情報機関・国家情報院の次長や大統領補佐官を歴任した羅鍾一(ラ・ジョンイル)氏の著書『張成沢の道』によれば、革命化が命じられた理由は、「喜び組」パーティーだった。

張成沢氏は当時、金正日氏のために「喜び組」パーティーを仕切る役割を担っていたが、自らの権勢が強まるにつれ、毎週のように自分に忠実な人々を集め、独自のパーティーを開くようになっていたのだ。

「喜び組」パーティーは、諸外国では金王朝の「堕落の象徴」として見られている。

息子が父に

しかし実態としては、この秘密の会合がある程度の政治的機能を持ち合わせていたのも事実だった。1990年代末に欧州から韓国に亡命した脱北外交官は、次のように語っている。「パーティーには、政策調整の目的もあったのです。北朝鮮の行政システムは極端な縦割りになっており、部門間の調整がなかなかできない。だから限られた資源の配分を巡って、対立やいさかいがしょっちゅう起きる。そのため金正日は、各部門の長たちに酒を勧めて行政上の問題点を語らせ、『わかった。ではその問題はこのように解決しろ』といった具合に整理していたのです」

また前述した『張成沢の道』によれば、そもそも「喜び組」は金正日氏が、父・金日成主席のために作ったのであり、その趣旨は「日本の占領期から祖国と民族のため、あらゆる苦労をしてきた首領様に喜びを差し上げる」というものだったという。

サービスが「変質」

いかに独裁者といえども、自らの権威を気にすれば、「オレのために美女を連れてこい」とはなかなか言えない。そこで、息子であり側近であった金正日氏が「気を利かせた」というのが、「喜び組」誕生の背景だったのだ。もっとも、当初の「喜び組」はマッサージや漫談、音楽などの演芸部門に限られていた。しかし、金正日氏が独裁体制の後継者として足場を固めるに従い、「喜び組」も同氏のためのものに変質。同時に「男性のためのサービス」(前掲書)部門が加わり、われわれの知る「堕落の象徴」と化していったというのだ。

ちなみに、「夜の奉仕」のような役割を担ってきたのは、「喜び組」の中でも「木蘭組(モンランジョ)」と呼ばれるグループだったとされる。

いずれにしても、北朝鮮において「喜び組」パーティーのようなものは、最高権力者のためにのみ催されるべきものだったのだ。それを自分のために開き、処罰された張成沢氏は、後年の粛清を予感させる危うさを、当時から備えていたと見ることもできるだろう。