政治犯収容所などでの拷問・性的暴行・公開処刑の恐怖
収容者数の減少は、ある程度は第17収容所の収容者の釈放が原因であろう。しかし、これと同程度に重要な要素は、獄死および収容者は原則として子を持つことが許されていないという事実である。釈放が増加していない中での収容者数の減少は、新規収容者の数が飢餓、放置、苛酷な強制労働、疾患、処刑により死亡する収容者の数を下回っているということを意味するだけである。
(b)政治犯収容所制度の進展と目的
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北朝鮮は、金日成の大規模粛清を受けて、秘密政治犯収容所制度を1950年代後半に開始した。この制度はソ連がスターリン治下でグラーグに設置した収容所に倣ったものである。北朝鮮の収容所はグラーグ収容所より苛酷であった。
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収容所の規模は急激に拡大した。金日成は政敵および対立する社会主義者を粛清し、キリスト教と天道教を抑圧した。粛清の主対象の多くは処刑されることが少なくなかったが、下級役人やその関係者は姿を消して収容所に入れられた。高級官僚を含めた多数の新たな犠牲者が1970年代から1990年代に粛清され、北朝鮮労働党内の反対分子が排除され、父である金日成の死後の金正日の王朝承継のための国家の道具とされた。
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「連座制」の原則に基づき、粛清者の親、配偶者、兄弟姉妹、子(年齢不問)などの家族も政治犯収容所に送られた。親族であっても粛清の時点ですでに他家に嫁いでいた女性のみは免除された。厳格な父系社会にあってこれらの女性たちは別の家族に属するとみなされたからである。また、妻も、即時の強制離婚により収容所送りを免れることがあった。
- 1981年、ある証人の家族全員が、2歳と4歳の幼児を含め、国家安全保衛部の担当官に逮捕され、第12政治犯収容所に送られた。この証人は自分が逮捕を免れたのは他家に嫁いでいたからだと考え、2度と自分の家族と会わなかった。この家族は金正日による金日成の承継への妨げとなる金日成の傍系家族の粛清の犠牲者となったと考えられる。この家族は婚姻により金正日の親族となったキム・ファンヨプ氏の親族であった。キム・ファンヨプ氏は労働党の幹部であったにもかかわらず、自身が粛清されたと伝えられている。
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