【画像】「炎に包まれる兵士」北朝鮮 、ICBM発射で死亡事故か…米メディア報道

金正恩氏は軍需工業大会で、「国家核戦力完成の大業を成し遂げたのは、高価な代償を払いながら決死の闘いで獲得したわが党と人民の偉大な歴史的勝利だ」と宣言した。

ここで言う「高価な代償」とは、核・ミサイル実験に対する国際社会の経済制裁によって生じた、経済的・政治的損失のことを指していると思われる。ただ、北朝鮮の独裁体制において、金正恩氏ら支配層が最終的に損失を負うことはない。そういった損失はすべて大衆に押し付けられるからだ。

テレビで見て衝撃

それは、核・ミサイル開発の現場にいる軍人たちも同じだ。北朝鮮が最近、実施したミサイル発射実験においては、事故が多発していた様子が観測されている。

北朝鮮が先月29日、大陸間弾道ミサイル(ICBM)「火星15」型を発射した際、朝鮮人民軍(北朝鮮軍)の兵士と思しき人物が、エンジンから噴出された火炎に焼かれて死亡したとの情報が出ている。しかも北朝鮮が公開した映像に、その場面が映っていたという。米政府系のラジオ・フリー・アジア(RFA)が北朝鮮国内の複数の情報筋の話として伝えたところでは、北朝鮮の軍内部ではもちろん、テレビでこれを見た人々の間で衝撃が広がっているという。
(参考記事:【画像】「ミサイル発射映像に炎に包まれる兵士」金正恩氏、目撃しながら大喜びか

また、北朝鮮は3月22日で弾道ミサイルの発射に失敗した際、発射する前の運搬中か、ミサイルを立てる段階で爆発したとされている。

移動発射台が炎上

米ジョンズ・ホプキンス大学の北朝鮮分析サイト「38ノース」は、同月28日に撮影された、東海岸の元山(ウォンサン)にある葛麻(カルマ)空港の衛星写真を分析。その結果、ミサイル発射台に向かう2本目の滑走路において、110メートル大の爆発の跡が確認されたのだ。さらに、2016年10月20日にも、ムスダンと見られる中距離弾道ミサイルの発射実験が失敗に終わっており、このときには直後に起きた火災によって移動発射台が燃えたことがわかっている。いずれも人命被害は確認されていないが、兵士らが犠牲になっていたとしても不思議ではない。

そもそも北朝鮮では、このような人災が繰り返し起きている。

(参考記事:北朝鮮、橋崩壊で「500人死亡」現場の地獄絵図

【目撃談】北朝鮮ミサイル工場「1000人死亡」爆発事故の阿鼻叫喚

RFAが報じた「火星15」発射の瞬間。火炎を上げるミサイルの左手前に見えるのが人影だという(RFA)

米国の北朝鮮専門ニュースサイト、NKニュースが最近、事故発生当時に江界在住だった脱北者の証言を引用し、事故の顛末を詳しく報じている。

150キロ先から見えた火炎

証言したのは、当時江界市の食糧配給の指導員として働いていたコ・チョンソン氏だ。その内容は次のようなものだ。

1991年11月30日。夜勤を終えたばかりの26号工場の組み立て班の班長、タク・チョンサンは疲れ切っていた。彼が火薬を乱暴に扱ったことで、午前9時半ごろ、小規模の爆発が起き、火の手が上がった。

歩哨に立っていた若い女性が消防に通報し、保安署(警察署)も出動した。現場に派遣された60人の保安員(警察官)は3組に分かれて、地下の工場へとつながる鉄製のドアを閉じようとした。
大爆発が起きたら、市街地にも被害が及ぶことを恐れてのことだ。一部のドアを締めることに成功したが、その過程で14人が死亡した。

そんな犠牲にもかかわらず、小さなものだった炎があっというまに大きな火柱となり、何度もの爆発を引き起こした。

爆発の衝撃で民家の窓ガラスが吹き飛んだ。発電所にも火の手がおよび、人々は赤い稲妻が空に駆け上るさまを目の当たりにした。

やがて、26号工場から赤いきのこ雲が立ち上がった。住民は敵国からミサイルで攻撃されたものと思ったという。

街中が「火の海」

市の人民委員会の担当者は、スピーカー付きの車で町中を駆け回り、工場から40キロの範囲にいるすべての人に緊急避難を呼びかけた。非番の保安員、保衛員、軍人すべてが非常召集された。
数万人の人が避難を始めた。ある人はテレビを、ある人は食べ物を持っていたが、ほとんどの人が手にしていたのは金日成氏の肖像画だった。命より肖像画の方が大切とされるからだ。中にはけが人もいて、まるで戦争が勃発した直後のような状況だった。

文字通り街中が「火の海」と化した。火災が収まったのは翌日のことだった。

当局は130人が死亡したと発表したが、複数の目撃者によると、死者は1000人を下らないという。翌日の労働新聞は、ザイールの新聞が金正日氏の労作(論文)を取り上げたことを大きく報じたが、事故のことには一切触れなかった。

「収容所送り」に

金日成氏は、地域の労働党委員長と保安署長の労をねぎらい、共和国英雄の称号を与えた。しかし、「大量の地雷、ミサイル、薬莢が失われ、工場が壊滅的ダメージを負ったことに金日成氏が激怒している」との噂はなかなか収まらなかった。
第2経済委員会のキム・チョルマン議長、チョ・ピョンホ軍需工業相など多くの高官が責任を取らされ、降格処分となった。工場のピョン・ヨンセ支配人は処刑こそ免れたものの、金日成氏の命令で政治犯収容所に送られた。

事故から20日間、江界を含む慈江道全域への交通、通信が遮断された。噂の拡散を防ぐのが目的だった。しかし、150キロ離れた煕川(ヒチョン)でも火の手が目撃されたほどだったため、それは到底ムリなことだった。

朝鮮日報によると、この工場は地下8階まであり、深さは80メートルに達し、人員や物資の出入りはエレベーターで行う構造だった。また、事故を受けて当局は、道内の各自治体に棺桶の製造を指示するなど事態の収集に当たったと伝えた。

コ氏によると、この工場は元々平壌の平川(ピョンチョン)区域に1946年に設立されたが、朝鮮戦争の時に慈江道に疎開し、65号工場と名付けられた。戦後に26号、65号、93号の3つの工場に分離した。

年間1億8000万発を製造

26号工場は第2経済委員会の第2総局所属で、江界市南部の南川洞(ナムチョンドン)にあり、表向きの名前は江界トラクター工場だった。迫撃砲弾を年間12万6000発、ライフルの弾薬を年間1億7600万発、そのほかに自走砲の弾薬などを製造してリビア、シリア、イラン、イラク、エジプトに輸出し、莫大な外貨を稼ぎ出していた。金日成氏はこの工場を「軍需産業の母であり、国の宝」として、深く愛していたという。

通常、ミサイル製造は第7総局傘下の工場が行うが、1990年代初頭には26号工場においてもスカッド、火星1、火星2、様々な種類の地対空ミサイルやロケット砲弾を製造していた。

1000人以上がこの工場で働き、父から子、子から孫に引き継がれる巨大な「エンジニア王国」の様相を呈していた。多くの技術者が勲章をもらっていたが、中には最高勲章の金日成勲章を持つ人もいた。

在日組織の幹部が訪問

また、工場は独自の研究所を持っていた。1989年、保衛部はピョ・イリョンという女性研究者をスパイ行為で逮捕した。保衛部によると、彼女は西ドイツを訪れた際にアメリカの諜報機関から軍事機密を提供するようにカネを握らされたというスパイ容疑がかけられた。1980年代には在日本朝鮮人総連合会の韓徳銖(ハン・ドクス)議長が工場を訪問したが、見学できたのはごく一部で、製造部門の見学は許されなかった。それほど厳重な保安体制になっていた。

彼は腹を立てて、金日成氏に「自分は信用に足る人間だ、見学を許可して欲しい」と直訴した。これに対して金日成氏は「工場の規則は非常に厳しい、従わなくてはならない」と諭し、この工場の重要性を説いたという。

吹き飛んだ通勤列車

北部山間地域にある慈江道には、軍需工場が密集しているため、他の地域の人が立ち入ることも、道民が他の地域に出ることも厳しく制限されている。

この26号軍需工場の爆発事故は歴史に残るものだが、最大ではなかった。朝鮮日報の姜哲煥記者は、咸興出身のキム・スンチョル氏の証言を引用し、1979年に起きた北朝鮮史上最大と言われる爆発事故について伝えている。

証言によると、軍需工場の17号工場で製造された火薬25トンを積んだ貨物列車5両が停車中だったが、そこに火が付いた。2.8ビナロン工場、ヨンソン機械工場などに向かう通勤客が野次馬となった。ちょうど通勤列車が到着した時、大爆発が起きた。列車、駅舎はもちろん、近隣の住宅地も吹き飛ばした。3000人が死亡し、1万人が死傷したとされる。(関連記事:【画像】「炎に包まれる兵士」北朝鮮、ICBM発射で死亡事故か…米メディア報道
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