政治犯収容所などでの拷問・性的暴行・公開処刑の恐怖

  • 2005年、平壌の大学教授とその家族全員が燿徳の第15政治犯収容所に送られた。本人が同僚に語ったところでは、金正日はロシア生まれであることを(正式な伝記に記載されている白頭山ではない)、大学教授は韓国からの短波放送を違法受信して知った。娘一人を除く家族全員が失踪した。娘はすでに他家に嫁いでいた。

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収容所の収容者の中には、外国の「資本主義者」の影響力の遮断または国の情報独占政策を脅かすおそれがある活動を行った者もいた。過去には、朝鮮戦争による多くの捕虜および誘拐された市民のうじ、過去にじて沈黙し、再出国の権利の剥奪を受け入れることを拒否した者は収容所に入れられた。こういった朝鮮民族の多くは1950年から1960年代の日本からの帰還者であった。これらの者が外国で見聞きした反体制的な情報が広まることを恐れた当局が政治犯収容所に送った。1989年頃に東欧やソ連に留学した北朝鮮の多くの若者も同じ・運命をたどった。ベルリンの壁崩壊後の民主主義の高まりを目撃していたからである。

  • カン・チョラン氏の父方の祖父は国家建設を支援するため1960年代に日本から北朝鮮に移住した。1977年、祖父が突然失踪した。まもなく、カン氏(当時9歳)は逮捕され、起訴も裁判もなく第15政治犯収容所に送られた。母親のみは、カン氏の父親との強制離婚を受け入れたため収容を免れた。カン氏は収容所での10年におよぶ飢餓と強制労働を生きながらえ、説明もなく釈放された。カン氏は調査委員会に対し、第15政治犯収容所の全区域が日本から帰国した朝鮮人で占められていたと述べた。資本主義者の文化を知りすぎているという理由で抑留されたものと考えられる。

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