全てのことには時と場所があるものだ
去る11月5日、南朝鮮の文在寅大統領は朝鮮民主主義人民共和国国務委員会委員長が今回の特別首脳会議に参加してくれることを懇ろに招請する親書を丁重に送ってきた。
われわれは、送ってきた親書が国務委員会委員長への真心からの信頼の念と懇切丁寧な期待が盛り込まれた招請なら、あえてありがたく思わない理由がない。
われわれは、南側が国務委員会委員長の釜山訪問に関連する警護と儀典など、全ての迎接準備を最上の水準で整えて首を長くして待っていることも知らないのではない。
そして、この機会でも逃がさず、現北南関係を解決するための新しい契機と与件を作ってみようとする文在寅大統領の苦悩と煩悶(はんもん)も十分に理解している。
それは、文在寅大統領の親書が寄せられた後も、数回にわたって国務委員会委員長が来られなければ、特使でも訪問するようにしてくれという折り入った頼みを送ってきたことだけを見てもよく分かる。
しかし、濁り切った南朝鮮の空気は北南関係に対して非常に懐疑的であり、南朝鮮当局も北南間に提起される全ての問題を依然として民族共助でない外部勢力依存で解決していこうとする誤った立場から脱せずにいることが、こんにちの厳然たる現実である。
今のこの瞬間にさえ、「統一部」長官なる者は北南関係問題を持って米国への哀願訪問の途についたと言うのだから、初めから自主性も独自性もなく全てのことを外部勢力の手中に全的に任せている相手と対座して何を論議し、解決することができようか。
真心のこもった文は盲人も読むと言われた。
どんなことにも時と場所があり、入る所、出る所が別にあるものである。
果たして、今の時点が北南の首脳が会う時なのかについて考えてみざるを得ない。
惑星の電波に乗って流れ込む騒々しい響きを通じて、南の情緒がひどくきれいでないことをわれわれも知り尽くしている。
南朝鮮の保守勢力は、現「政権」を「親北政権」だの、「左派政権」だのと口をそろえて謗り、その延長線上で「北南合意の破棄」をけん伝しながらわれわれに対する非難と攻撃にいつよりも熱を上げている。
はては、以前の「政権」の時もあえて聞かれなかった「北の政権交代」だの、「北の崩壊誘導」などという妄言まで吐かれるほどである。
枯れ木から水取りという言葉のように、こんな時にいったい北と南が会って何ができ、そのような対面が果たしてどんな意義があるかということである。
せっかく訪れた和解と協力の薫風を跡形もなく飛ばしているにもかかわらず、何の対策も講じられずにいる南朝鮮当局が、紙一枚の招請で険悪な現状態を手の平をひっくり返すように容易く変えられると思うなら、それ以上の誤算はないであろうというのがわれわれの考えである。
犯した過ちに対する反省とすまない気持ちで三顧の礼を尽くしても足りない状況で、民族の運命と将来問題に何の関心もない他国の賓客らを大げさに招き、彼らの面前で北と南のどんな姿を見せたいのか問わざるを得ない。
北南間の根本問題、民族問題は一つも解決できない状態で、北南首脳の間に相変わらず対話が行われているという感じを与え、自分らが主導した「新南方政策」の片隅に北南関係をこっそりとはさみ入れてみようとする不純な企図に無鉄砲に従うわれわれではない。
われわれと大きく縁もない複雑な国際会議の場で会って握手し、写真を撮ることをいかに民族の聖山である白頭山で北南の首脳が両手を高く握り合った歴史的瞬間に比べられようか。
板門店と平壌、白頭山での約束が一つも実現されたものがない今の時点で、形式ばかりの北南首脳の対面はむしろ、しない方がましだというのがわれわれの立場である。
特に、北南関係の現危機がどこから来たのかをはっきり知って痛嘆しても遅い時に、それほど米国に頼って失敗したことも足りなくて今は住所と番地も間違っている多者協力の場で北南関係を論議しようと言うのだから、いぶかしいだけである。
子どもなら頑是ないから牛の角の上に卵を積む工夫をしたと言えるが、南朝鮮社会を動かすという人々が自分らの過と失を冷静に判断することに息を入れる代わりに、水面に絵を描く考えばかりしているのだから、北南関係はいかに改善され、和解と協力の花はいつ再び咲くだろうか。
再び明白に言っておくが、何事でもうまく運ばれるには時と場所を賢明に選択しなければならない。
このような理も分からない相手と十回、百回会うとしても、いかに好ましい結果が出るかということである。
そのやせた精神的土壌に自主的決断がいつ芽生え、育つのかを忍耐力を持って見守るしか他の方法はありそうでない。
南側の期待と誠意はありがたいが、国務委員会委員長が釜山に行くべき適当な理由をとうとう探し出せなかったことについて理解してくれることを願う。---