「手足が散乱」の修羅場で金正恩氏が驚きの行動…北朝鮮「マンション崩壊」事故
突然の訪中で世界をあっと言わせた、北朝鮮の金正恩党委員長。同氏はこれまでに度々、祖父の故・金日成主席や父の故・金正恩総書記の時代には考えられなかった行動を取り、北朝鮮ウォッチャーを驚かせてきた。
ちぎれた手足が散乱
2014年5月15日に発生した大規模マンション崩壊事故のときの同氏の行動も、その一例と言える。
金正日総書記は2009年、平壌10万戸建設事業を本格化させた。2012年に設定した強盛大国の完成の年に向け、老朽化した住宅を取り壊し、新しい住宅を10万戸建設、供給するという野心的な計画だ。これは、後継者である金正恩氏の実績作りという性格も非常に強かった。しかし、計画は初めの段階から躓いた。建築資材、労働力、それを裏付けする資金が全くなかったのだ。
頼りになるのは北朝鮮お得意の速度戦と自力更生精神だけだった。金正恩氏の側近の間からも「10万戸建設は無理ではないか、平壌を中心に最初は4万戸、金正日氏が亡くなった後に2万戸を建設する」との声があがるほどだった。
2011年、平壌市平川(ピョンチョン)区域鞍山(アンサン)1洞で23階建て92戸のマンション建設が始まった。工事を請け負ったのは、人民保安部(現人民保安省)の7総局。15万人の人員が所属する、北朝鮮最大の国営ゼネコンだ。
資金を提供したのはトンジュ(金主、新興富裕層)で、李という名の40代女性だった。夫は国家安全保衛部(秘密警察、現国家保衛省)の部門長で、その威光を背景に様々な利権に介入し、大儲けしてきた人物だ。その利益を平壌市内の建設事業に投資したということだ。
李女史は100万ドル以上を投資する見返りとして、92戸のうちの半分の入居権(実質的な分譲権)を得た。7総局は労働力を提供することで、4割の権利を得た。
残りの1割の入居権は平川区域の朝鮮労働党と行政機関が持つことになった。土地や建物の私有が認められていない北朝鮮では、入居権に値が付けられて取引される。李女史はそれを売り払って利益を生み出そうとしていたのだ。
工事は問題ずくめだった。北朝鮮お得意の「速度戦」で工事が進められたが、工期が優先され、質が度外視された。
また、民間の資金で住宅を建てるとなれば、利益を最大化するために、できる限り原価を切り下げようとする。そのため、規定に反して鉄筋などの資材を減らしたり、不良品を使用したりした。工事を請け負った機関の責任者も、ワイロを受け取って見て見ぬふりをするため、問題が表面化することはなかった。
問題はそれだけではない。
建設労働者はもちろん、近隣の住民まで現場から資材を盗み出すのだ。建設工事に携わってもまともな給料がもらえないため、生きていくために盗みを働くのである。かくして問題だらけのマンションは完成したが、当初から傾いているとの指摘がなされていた。
事故当日。マンションは鉄骨と外壁だけが完成した状態だったが、すでに多くの人が入居していた。北朝鮮では、工事がある程度進んだ時点で入居し、内装工事は入居者が行うのが一般的だからだ。
午後6時ごろ、マンションは轟音と共に粉塵を巻き上げ、あっけなく崩れ去った。内装工事に使うために運び込まれていた砂や砂利の重さに耐えられなくなり、4階東側の壁に亀裂が入ったのが原因だった。
マンションには、建設労働者、7総局の担当者、住民、引越し祝いに招かれた人など大勢の人がいたが、内部資料によると、450人から500人が犠牲になったとされている。
事故の一報を受けた金正恩氏はあまりの事態に仰天した。国の体面に関わるような大事故は、隠蔽と箝口令で対処するのこの国の流儀だが、このときばかりはそうも行かなかった。事故が起きたのは平壌市内、それも外国人が利用するホテルやレジャー施設から至近距離にあったためだ。金正恩氏は最高司令官の名義で「1週間以内に瓦礫を撤去し、事故の痕跡を完璧になくせ」と命令を下した。
7総局は、救助活動も遺体の収容作業も行わず、重装備を投入してガレキの撤去を始めた。ガレキの中からは、ちぎれた手や足など遺体の一部が次々に発見された。それらは平壌赤十字病院に移され遺族に返された。しかし、多くの人は肉親の遺体を見つけられずにいた。
同年の1〜2月、前年12月に処刑された金正恩氏の叔父・張成沢(チャン・ソンテク)元国防副委員長と関連のあった人民保安部の主要部署の核心幹部や、その家族が平壌から追放され、農村や収容所送りとなっていた。その件で平壌の世論がギスギスしていたところに発生した大事故。金正恩氏は、動揺した民心の収拾に乗り出した。
金正恩氏の指示で合同告別式が行われ、党中央委員会財政経理部が主導して義援金集めを行い、死亡者1人あたり3000ドルが支払われた。また、マンションを改めて建設し無償で提供すると同時に、内装費9000ドルも負担した。
さらに、建設責任者で日本の警察庁長官に当たる崔富一(チェ・ブイル)人民保安部長、7総局のソヌ・ヒョンチョル局長、平壌市人民委員会(市役所)のチャ・ヒリム委員長(平壌市長)、平川区域のリ・ヨンシク党責任秘書らに、遺族に向かって謝罪させた。その様子は朝鮮労働党機関紙・労働新聞でも4面に写真入りで報じられた。権力が国民に謝罪するとは、北朝鮮においては前代未聞の出来事である。
事故直後に国防委員会(現国務委員会)設計局と常務局、内閣建設監督省が合同で調査を行った結果、本来は20階建てだったはずが勝手に23階建てに変更され、鉄筋が規定の3分の1しか入れられていないことが判明した。さらに平壌近郊の祥原(サンウォン)、順川(スンチョン)のセメント工場製の高強度セメントではなく、中国から取り寄せた不良品を使っていたこともわかった。
責任者はいずれも解任、左遷、降格の処分を受けた。ところが、李女史は何ら罪を問われていない。噂では、夫を通じて事故の調査担当者と、その上級機関である組織指導部にワイロを掴ませ、もみ消しを図ったようだ。その甲斐あってか、報告書から事故の背景と原因についての記述は大幅に抜け落ちている。(参考記事:【再現ルポ】北朝鮮、橋崩壊で「500人死亡」現場の地獄絵図)
(関連記事:やっぱり事故が起きていた金正恩氏「恐怖写真」の現場)
事故の遠因は、金正恩氏の後継者としての足場固めのために、金正日氏が無理に業績づくりをさせようとしたことにある。また、速度戦などと言った精神論を振りかざし、質を省みようとしない北朝鮮の旧態依然とした体制、根を下ろしはじめたばかりで、形骸化した計画経済の残滓と共存するいびつな資本主義もある。
しかし、事故の教訓は生かされなかった。同じ年の10月、楽浪(ランラン)区域で建設中だった38階建てのマンションの一部が崩壊し、多くの死傷者が発生した。多発する事故を見た平壌市民はいま、新築マンションを恐れ、築20〜30年の古いマンションを好んでいるという。
やっぱり事故が起きていた金正恩氏「恐怖写真」の現場
北朝鮮国営の朝鮮中央通信や朝鮮労働党機関紙の労働新聞は2018年7月10日、金正恩党委員長が中国との国境地域にある両江道(リャンガンド)の三池淵(サムジヨン)郡の建設現場など各所を視察したことを大きく報じた。その際に公開された写真を見た建築専門家の間からは、重大な事故が発生する可能性が指摘されている。
(参考記事:金正恩氏の背後に「死亡事故を予感」させる恐怖写真)
そして「やはり」と言うべきか、この現場近くで深刻な事故が発生していたことがわかった。両江道(リャンガンド)の内部情報筋によると、道内の恵山(ヘサン)近郊で、大量の建設物資を積んで三池淵(サムジヨン)に向かっていた貨物列車が転覆した。
この事故で、貨物列車に乗っていた荷主4人が負傷し、意識不明の状態で病院に搬送された。北朝鮮のこうした列車は、貨物1両あたり2人の係員が乗ることになっており、移動手段として商人が乗り込むこともあるため、負傷者はさらに多い可能性があると情報筋は伝えた。
「ソビ車(個人経営のトラック、バス)よりも安く移動しようという商人が、車掌にワイロを渡して貨物列車に乗ることもある」(情報筋)
事故の原因はわかっていないが、現地では「レールを枕木に固定する犬釘を誰かが抜いたせいではないか」との見方が持ち上がっている。当局が反国家行為だとして捜査に乗り出したとの噂も出回っている。つまり、体制に反発する一種のテロ行為ではないかと疑っているわけだ。
一方、この路線は最近完成したばかりで、路盤が十分に固められておらず、崩壊したのが原因ではないかと見ている人もいる。北朝鮮では「速度戦」の名の下に、無理な工期のごり押しによる手抜き工事が横行。また、安全設備がないことがほとんどで、死亡事故が頻発している。
例えば1989年4月、高速道路の建設現場で、建設途中の橋が崩落する事故が発生した。
この時、現場にいた500人が120メートル下の川原に落下。後に韓国へ逃れた目撃者たちの証言によれば、川原には原形をとどめない死体が散乱し、救助の看護師たちが気を失うほどの地獄絵図と化したという。
そうでなくとも、北朝鮮の鉄道は施設の老朽化が激しく、各地で事故が多発している。
咸鏡南道(ハムギョンナムド)の咸興(ハムン)では1979年、停車中だった火薬25トンを積んだ貨物列車5両が火災を起こし、大爆発を起こした。
到着した通勤列車が巻き込まれ、3000人が死亡し、1万人が負傷したといわれている。
この分だと、問題の写真を見た建築専門家の懸念が現実のものとなってしまう可能性も小さくはない。
通勤列車が吹き飛び3000人死亡…北朝鮮「大規模爆発」事故の地獄絵図
2018年1月26日午前7時半ごろ、韓国南部・密陽(ミリャン)の病院で火災が発生した。韓国メディアによると、入院中の患者ら41人の死亡が確認された。韓国では前年12月に、中部の堤川(チェチョン)でビル火災が起き、29人が死亡した。
野次馬の通勤客が
2014年4月に起きたセウォル号沈没事故以来、韓国の安全行政の不備は国際的な関心事となってきたが、未だに抜本的な改善がなされていないことが露呈した形だ。ちなみに北朝鮮では、これらをはるかに凌駕する規模の事故が多発している。
(参考記事:【目撃談】北朝鮮ミサイル工場「1000人死亡」爆発事故の阿鼻叫喚)
たとえば中国との国境地帯にある慈江道(チャガンド)の江界(カンゲ)市で1991年、ミサイルや砲弾を製造していた軍需工場が大爆発を起こし、多くの死傷者が発生した。当時、北朝鮮にいた人の間では有名な話だが、海外ではあまり知られていない。米国の北朝鮮専門ニュースサイト、NKニュースが最近、事故発生当時に江界在住だった脱北者の証言を引用し、事故の顛末を詳しく報じている。
スカッドなどの弾道ミサイルをはじめ、年間約2億発をはるかに超える弾薬を製造し、1000人以上が働いていたこの工場は、父から子、子から孫に引き継がれる巨大な「エンジニア王国」の様相を呈していたという。その工場が一夜に消し飛んだというのだから、事故がいかに深刻なものであったかがわかる。
ちなみに1980年代には、在日本朝鮮人総連合会の韓徳銖(ハン・ドクス)議長が工場を訪問したが、見学できたのはごく一部で、製造部門の見学は許されなかった。それほど厳重な保安体制になっていたのだ。
彼は腹を立てて、金日成氏に「自分は信用に足る人間だ、見学を許可して欲しい」と直訴した。これに対して金日成氏は「工場の規則は非常に厳しい、従わなくてはならない」と諭し、この工場の重要性を説いたという。
北部山間地域にある慈江道には、軍需工場が密集しているため、他の地域の人が立ち入ることも、道民が他の地域に出ることも厳しく制限されている。
この26号軍需工場の爆発事故は歴史に残るものだが、それでも最大ではなかった。朝鮮日報は以前、咸興(ハムン)出身のキム・スンチョル氏の証言を引用し、1979年に起きた北朝鮮史上最大と言われる爆発事故について伝えている。
(参考記事:【再現ルポ】北朝鮮、橋崩壊で「500人死亡」現場の地獄絵図)
証言によると、軍需工場の17号工場で製造された火薬25トンを積んだ貨物列車5両が停車中だったが、そこに火が付いた。
2.8ビナロン工場、ヨンソン機械工場などに向かう通勤客が野次馬となった。ちょうど通勤列車が到着した時、大爆発が起きた。列車、駅舎はもちろん、近隣の住宅地も吹き飛ばした。3000人が死亡し、1万人が負傷したとされる。
このような例は、少し規模を小さなものまで含めれば、枚挙に暇がないほどだ。それもこれも、北朝鮮の独裁体制の人命軽視が下地になっているのである。
(参考記事:【画像】「炎に包まれる兵士」北朝鮮 、ICBM発射で死亡事故か…米メディア報道)