北朝鮮の弾道ミサイル開発は空軍のエジプト派遣から始まった

朝鮮人民軍 海外戦記/中東編(7)

北朝鮮は第4次中東戦争に参戦したことによる成果を、国連総会で得ることになった。

国連は朝鮮戦争の最中である1950年10月に国連韓国統一復興委員会を設置していたが、北朝鮮は同委員会の存在を嫌い、その解体を繰り返し求めていた。

1973年11月14日からの第28次国連総会第1委員会で、北朝鮮のオブザーバー参加の下に朝鮮半島問題が討議されると、社会主義国家や中東、アフリカ諸国などが北朝鮮を支持した。もちろん、エジプトとシリアの代表も北朝鮮の主張を強く支持した。

その結果、11月21日には北朝鮮の望み通り、同委員会の解体が表決なしで決定された。北朝鮮は、国連外交の最初の年に一定の成果を得たといえる。

ミサイル開発の足がかりに

北朝鮮は第4次中東戦争後も、エジプトやシリアに軍需工場を建設し、両国との友好を大切にした。

そうした支援は、北朝鮮からの一方通行ではなかった。エジプトはパイロット派兵の見返りとして、北朝鮮にソ連製弾道ミサイルである「スカッドB」(ソ連名はR-17E)を引き渡したことが韓国国防部によって確認されている。いわゆるノドンやテポドンなどの北朝鮮の弾道ミサイル開発は、ここから始まったと考えられている。

ただし、北朝鮮は最初から弾道ミサイルの引き渡しを求めて派兵したわけではなかったようだ。シャーズィリーによると、北朝鮮の空軍部隊がエジプトに到着したのは1973年6月であったが、ソ連の弾道ミサイル旅団がR-17Eとともに初めてエジプトに到着したのは同年7月末のことであった。北朝鮮が派兵を決定した時には、エジプトにはまだ弾道ミサイルがなかったのである。

北朝鮮でミサイル部隊が創設されたのは、エジプト派兵から間もなくと考えられる。974年8月に金日成が、後に戦略ロケット司令部と呼ばれるようになる第639軍部隊を訪問した記録があるからだ。

エジプトがいつ、北朝鮮に弾道ミサイルを渡したのかは分かっていない。ただ、エジプトにR-17Eが導入された1973年7月から、金日成が第639軍部隊を訪問した1974年8月までの間であったろうと推定される。ここから北朝鮮の弾道ミサイル開発が始まり、第639軍部隊が戦略ロケット司令部として対外的に公にされるのは約40年後のことである。

シリアとの長い蜜月

またシリアも、ハーフィズ・アル=アサド大統領(バッシャール・アル=アサド現大統領の父)が1974年9月28日から10月3日に北朝鮮を訪問し、朝鮮半島で再び戦争が起これば支援軍を送ることを約束した。

シリアは現政権においても北朝鮮との友好関係を維持している。アサド政権と北朝鮮の間には数々の軍事協力があったはずであるが、まだ全容は明らかになっていない。

「アラブの春」によってシリアは内戦状態に入り、アサド政権は以前と比べて弱体化している。それでも、北朝鮮は「イスラーム国(ISIL)」や自由シリア軍、ヌスラ戦線、クルド人勢力などのシリア国内の他の勢力に加担せず、アサド政権を支持し続けている。

アサド政権もまた北朝鮮を支持し続けている。アサド政権はアメリカや韓国と国交を締結していない。さらには対北朝鮮制裁にも反対しており、国連加盟国に要請されている制裁状況の報告にも一切応じていない。

また、2005年12月以来の国連人権委員会や国連総会における北朝鮮人権状況決議でも、アサド政権は一貫して反対票を投じてきた。アサド政権によるシリア国内の人権状況が問題にされていることも原因かもしれないが、北朝鮮への支持が現在に至るまで変化していないのも事実だ。

その一方、北朝鮮に空軍を派兵させた当時のエジプト大統領サーダート、空軍司令官ムバラク、そして金日成を突き動かした立役者と言える参謀総長シャーズィリーの3人の運命は、時代の波に揉まれることになる。(
つづく


(宮本 悟 聖学院大学教授)