脱北者に対する拷問・性的暴行・乳児殺しの実態

北朝鮮における人権に関する国連調査委員会の報告(詳細版)から抜粋

(b)北朝鮮からの脱出の様式とその隠れた理由

➢ 385
委員会がみたところ、1980年代の終わりまで、北朝鮮を逃亡したとみられる人はほとんどいない。しばしば逃亡した人々は政治的理由のため、そうしたのであった。

1990年代には、国内の加速する飢えと飢饉のため、経済的失望と人権侵害から逃れるため、中国国境の不法横断が犯罪にもかかわらず、大衆現象となった。多くの絶望した市民が食糧と仕事を求めて、物の売り買いのため、北朝鮮に接する中国の村に住んでいる親戚から援助を得るため、国境を違法にわたった。彼らは飢饉の時期、国家統制の崩壊を利用した。

  • キム・クヮンイル氏は、1990年代の大飢饉を生き延びるただ一つの方法は違法に中国に出たり、入ったりして、自分たちを養うため、中国から物を密輸したり、中国へ輸出したりすることであったと述べた。彼は他の人たちと同様、そうすることは違法であり、厳しく罰せられる危険があることは分かっていたが、政府が彼や彼の家族に食べ物を与えてくれない以上、国境をこえる以外選択肢はなかったと述べた。
  • ある証人は飢え死にしそうで、親戚から援助をしてもらえないかと計画を立てて、国境を越えることを決断した。彼は大学で学問を修了したかったので、帰ってくる意志を持っていた。状況は金日成の死にともない、ひどくなった。彼の大学では状況は非常に酷く、学生はお互いに盗みをしあった。彼は秘密裏に国境地域へ旅をした。しかし、彼はつかまらず、幸運であった。もし、つかまっていたら、彼は拘留施設に送られ、そこでは「人間として扱われない」まま拘留される、と聞いた。本国へ送還される人々のための拘留施設でのそのような扱いの描写は委員会が受け取ったほかの証人と一致している。

➢ 386
北朝鮮では1990年代に数十万の人々が餓死していたのにもかかわらず、当局は旅行禁止を解除しなかったし、市民が国境沿いの地域から中国へ行くことを許可しなかった。中国には、多くの人々が朝鮮系の親戚を有し、そこで生き延びるために仕事をみつけるたりすることができたであろう。1999年もしくは2000年には、状況がすでに改善していた。金正日は食糧と労働のためだけに中国へ行ったと示した人々は慈悲にて取り扱うべきだと明白に支持を発した。しかしながら、「慈悲」の比較的短期間の間でさえ、中国から強制的に送還された人を一貫して罰する慣行はけっして完全にはなくならなかった。

➢ 387
さらに、2000年後半、大飢饉がある程度、潮を引いた後、再び、あらゆる「離反」に「非情な抑圧」を与えるよう、命令が下された。そして、国家は国境の統制をふたたび主張した。

➢ 388
しかし、北朝鮮からの逃亡を抑圧すべく引き続き努力したり、ひどい暴力や厳しい罰を使って、承認されていない国境越えを妨げたりしているにもかかわらず、飢饉のあいだ起こった違法な国境越えの様式は2000年代まで続いた。金正恩が2009年に後継者として明白に表れ、多くの職務を、病気をわずらっている金正日から引き継いだ。国境を封鎖する強い押しがあったのだ。このため、中国への流出は減り、また、大韓民国へ行きついた北朝鮮の国民の数も減ったと証拠づけられている。

  • キム・ユンファン氏は、中国と北朝鮮の国境地域に運営本部がある人道主義ネットワークで働いていたのだが、北朝鮮から逃亡した人の数は2009年にピークとなり、以降漸進的に減少していると委員会に報告した。金正恩が権力を握ってから、弾圧が増したと彼は感じていた。

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➢ 389
大韓民国統一部によって提供された、大韓民国に入国した北朝鮮の国民の人数は、2001年から2009年まで増加傾向を示している。その後、2011年から2012年には明らかに減少した。

➢ 390
ここ数年で出国した人たちの動機は、よりさまざまになってきた。2012年に行われた調査に基づくと、最近の「逃亡」の形式は、経済的理由よりむしろ、政治的理由になってきた、という点で「逃亡」は変化した、と韓国法曹協会は指摘した。さらに、家族での「逃亡」が個人での「逃亡」を上回り、これらの「逃亡」は以前より、もっと永久的なものになっているようである。

➢ 391
政治的、あるいは宗教的理由での迫害を免れるため、中国へ逃亡する人もいる。

  • A氏は生き延びるための食糧を見つけるため、中国に旅し、行商にも携わった。これらの訪問中、彼はキリスト教会と接触するようになった。人民保安省が彼の訪問の理由について、拷問しながら尋問したとき、彼は永久的に中国に逃亡することを決断した。
  • 咸鏡北道出身の活動しているクリスチャンである、ある証人は2011年に北朝鮮から逃亡した。仲間のクリスチャンが処罰される前に、拷問のもと、彼女の名前を漏らしたのであった。朝鮮人民軍の陸軍保安司令部が彼女を逮捕しに来たとき、豆満江を渡って逃げたのだ。

➢ 392
北朝鮮の多くの人々が2000年代にも続いた経済的困難と食糧不足のため、逃亡した。特に、中国国境近くの辺境地域では、食料の権利に対して、差別的侵害があったためである。そのような理由で逃亡した人たちの多くは低い「成分」に分類された結果、社会経済的困窮に苦しんだ。というのは彼らの祖先の政治的忠誠が疑問に付されたからである。これらの場合、なかには金を稼ぐため、限られた期間だけ、中国に行くことを計画したが、強制的に本国に送還された。送還とそれに続く罰の結果、彼らは政治的反逆者の烙印を押され、仕事の機会や住宅、その他の必需品を得られる術を残り一生失った。

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➢ 393
彼らは北朝鮮の国外の生活について、より多くの情報を受け取ったので、北朝鮮から逃亡した人は大韓民国にたどり着こうとした。うまく大韓民国にたどり着いた人々は、それから他の家族や親せきを連れてこようとした。人道主義活動家で構成されたり、プロの密輸者で構成されたりした秘密の脱出ネットワークが出現した。北朝鮮市民はしばしばモンゴル経由で中国から大韓民国へ移動した。2007年から、モンゴルルートは、実際上、中国国境の監督がより厳しくなったため、封鎖された。それ以降、北朝鮮市民は通常、ベトナム、ラオス、カンボジアを通って、タイに着き、そこから大韓民国に入った。

➢ 394
大韓民国の公の統計によると、2013年11月現在、北朝鮮から逃亡した26,028人が大韓民国国民となった。これらのうち、80%以上が国境地域、たとえば、咸鏡道や両江道から来た。そして、70%以上が20歳から49歳であった。北朝鮮から逃亡した人々のなかで、女性の数と所帯の数が一様に増加しているのが見られた。女性の数は大韓民国に定住した人のおよそ70%を占めている。だから、多くの人は中国にとどまったが、北朝鮮から逃亡した人々の70%は女性であったと見積もられる。北朝鮮の市民のかなりの数の人が、アメリカ合衆国、イギリス、日本その他の国々で難民あるいは永住者と認められている。

➢ 395
一般的に北朝鮮から逃亡する人は秘密で中国に住んでいるので、北朝鮮の国民が現在そこに何人住んでいるのか推計するのは困難である。推計値は大きく変化する一方、時により、変動もあり、2000年代後半に中国から多くの人が強制送還されたのと相まって、国境での監督が再び開始されるのに一致して減少したりしているようだ。

➢ 396
2005年に、人道機関の Good Friends が推計したところ、北朝鮮国境沿いの中国の村にいる北朝鮮の国民は50,000人であった。2006年には、中国人への質問や韓国―中国対話者や他のNGOのレポートをもとに、International Crisis Group は10,000人と見積もった。ジョンホプキンス大学のコートランド・ロビンソン教授による2010年の調査では、中国の3つの北東地区にいる北朝鮮の国民は6,824人であった。それに北朝鮮出身の母親から生まれた7,829人の子供が加算される。2013年に、統一研究院は中国の国境地区に住んでいる北朝鮮の国民の総数を少数人数の韓国人を含め、見積もった。それによると、2012年には成人が約7,500人(少なくとも4,500人から多くて10,500人ほど)と子供が20,000人(少なくとも15,000人から多くて25,000人ほど)である。

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(c)国境監督手段

➢ 397
2009年以来、北朝鮮と中国により主導された、国境を封鎖する明白な強化策があった。中国は特に北朝鮮が元である薬の密売だけでなく、文書で証明されていない移民の流入を懸念した。横断が最も頻繁に行われた国境の延長沿いに北朝鮮と中国の両国によって柵や障壁などが設置された。国境への最近の訪問者からの証拠を得ることに加え、そのような施設を示す関連の写真を調査委員会は調べた。

➢ 398
国家安全保衛部、人民保安省、朝鮮人民軍はすべて国境地域に配置され、朝鮮民主主義人民共和国からの脱出を避けるため、密に連携し活動した。金正恩が権力を引き継いでから、国家安全保衛部も朝鮮人民軍の国境安全司令部から引き継いで、国境監督での主導権を割り当てられた。この動きは、軍の腐敗への不満によって行われたといわれている。中国で北朝鮮の国民と一緒に働いたある証人によると、2010年以降、当局はしばしば守衛を交替し、守衛が賄賂を受け取って、国境を越えるのを手助けしづらくしてきた。

➢ 399
統一研究院は2009年から、国家安全保衛部は行方不明か逃亡した者を持つ家族への監視をより強めたことを含め、「逃亡者」に対する新しい手段を実行した、と見ている。法の執行労働者さえ、「逃亡」した親戚がいれば調べられた。そして、もしそうならば、彼らはその職の地位からはずされるだろう。2010年に、伝えられたことによれば、国勢調査が行われ、広い地域にわたって、「逃亡者家族」の調査が行われた。この計画は失効したようだが、「逃亡家族」が送られる遠い地域に「追放村」が定められたと見られる。

➢ 400
2011年12月、金正日の死に続いて、北朝鮮は喪に服する期間、市民の移動に関する制限を強化した。ベッドチェックがより強化して行われ、国境沿いのすべての家族が順番に見張りを要求された。報告されたことによると、鉄条網に加え、地雷が国境に設置された。豆満江の土手には4インチの釘のついたパネルだけでなく、主な逃亡ルートにカメラが設置された。

➢ 401
2013年11月、朝鮮民主主義人民共和国当局は、近隣監視の報告手法を含め、「逃亡者」疑いのある家族の監視を強化していると報告された。さらに、「逃亡した者がいる家族、あるいは居場所が確認されていない者がいる家族は地区の人民保安事務所に登録しなければならない…行方不明者や逃亡者の数が増えたため、当局は監視や統制を強化して、誰も逃亡させないようにしようとしているようだ。」

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➢ 402
元朝鮮民主主義人民民共和国の安全保障当局者が指摘したことであるが、彼らは国境を越えようとしている人は誰でも撃ち殺してもよいことになっている。この策は少なくとも1990年代初めにさかのぼり、維持されている。国境監督にかかわった元国家安全保衛部員は国から逃亡しようとしている朝鮮民主主義人民共和国市民を撃つ国境警備員は罰せられないだろうと述べた。別の元役人は2011年1月に国境を違法に越えた人を殺害したことを証言した。このことは、朝鮮民主主義人民共和国から逃亡する人々を助ける活動に携わった人道活動家であるKim Young -hwan氏の証言によっても確認された。また、同様の活動に従事している別の証人によっても確認された。

銃発射の指揮は、朝鮮民主主義人民共和国代理人が国境の中国側で多数の人を射殺した後、2010年か2011年の上方の命令をもとに修正された。朝鮮民主主義人民共和国代理人は今、中国側の人々を害さないよう注意するよう命じられている一方、逃亡しようとする人を射殺する基本的許可は適切に残っている。

➢ 403
この銃殺策は合法的な国境警備法として正当化することはできない。というのは、それは国際人権法に違反するからである。朝鮮民主主義人民共和国は国際法に違反するのだが、普通の市民のすべての旅行禁止を事実上、維持している。自分自身の国を出るという人権を実行するためには、許可なしで国境を越える以外、個人に他の選択肢はない。さらに、国境を許可なく越えさせない目的で、命を意図的に奪うことはまた、まったく不相応であり、差し迫った脅威に対して自己防衛あるいは他者の防衛のためにのみ、国家の機関によって致死力の行使がゆるされる、市民的及び政治的権利に関する国際規約の第6条に矛盾する。

➢ 404
委員会はまた、中華人民共和国の領域で、北朝鮮から逃亡した人たちを国家安全保衛部員が誘拐していることも把握した。人道活動家や北朝鮮の国民の逃亡を手助けする人たちとともに、逃亡する元役人や機密情報を漏らすかもしれない人たちが標的にされている。

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(d)北朝鮮から逃亡しようとした人たちへの拷問、非人間的取り扱い、投獄

➢ 405
市民を国から逃亡させないようにするため、北朝鮮当局は中国から強制送還された人たちや中国に行き着こうとしている途中で捕まえられた人たちを拷問し、非人間的取り扱いをし、投獄している。

➢ 406
1990年代に、当局は大飢饉から逃れようとする市民の最初のケースに直面し、しばしば、国民たちをおじけづかせるような例を示そうとした。

  • クォン・ヤンヘさんは、兄が北朝鮮から、「逃亡」しようとして、1994年に中国で逮捕されたことについて、調査委員会に話した。彼は、食糧を探しに中国へ行った。同様の「反国家」罪を犯したことに対する、他の人たちへの見せしめとして、彼はトラックの後ろに結び付けられて、故郷の茂山郡に連れて行かれた。

「茂山郡に着くまでに、彼の顔は血だらけになり、服はすべて引き裂かれた。そして、彼が倒れると、彼らはトラックをとめて、急いで彼を再び立たせた。栄養失調で軍から解放された時、彼は糖尿病だった。彼は中国に行った時、糖尿病だったので、母は病院で糖尿病の治療を受けさせようとした。兄がたとえ倒れ伏しても、トラックは進み、ボウィブの人たちは倒れた兄を立たせるため、殴るのだ。茂山郡は大きな町だが、みんなが見られるように3回も彼を引きずりまわした。」

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  • 1993年に、ある家族は中国へ逃亡し、咸鏡北道の穏城郡の故郷に強制送還された。5歳の男の子を含め、家族全員が手錠をつけて町中を歩かされた。それから父と母は鼻に突き通された輪でもって牛のように引きずりまわされた。町中が、調査委員会に話した証人もふくめ、(彼は当時13歳であったが)その残酷な見世物を強制的に見させられた。見物人はその犠牲者たちをののしり、石を投げた。その証人は家族がどうなったか知らない。
  • 1996年に別の証人が茂山郡で、当局が男の鼻に通したフックを使って車で男を引きずるさまを見た。彼らは拡声器で、反逆者を捕まえた、そして彼を取り戻すために、村の予算の4倍もの金を中国人に払わなければならなかったと宣伝した。小さい子供たちが車を追いかけて、男に向かって石を投げた。この恐ろしい経験が引き金となって証人は北朝鮮から逃亡した。

➢ 407
1990年代の大飢饉の間、ますます人々は北朝鮮から逃亡した。北朝鮮当局は送還された人々の罰をシステム化したようだった。その過程は通常の様式に従い、異なる保安機関が緊密に行動を調整しあった。送還された人たちと元役人との面談に基づき、調査委員会は下記に述べられた行動が一般的に中国から送還された北朝鮮の国民の取り扱いを反映していると認識している。

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➢ 408
北朝鮮を違法に出国し、中国当局に逮捕された国民は、国境で国家安全保衛部に引き渡される。少なくとも5か所の国境の町があり、そこを通って、送還された人たちは連れて行かれ、「処置される」すなわち、会寧市、恵山市、茂山市、穏城市、新義州市である。初めに、送還された人たちは、国境近くの国家安全保衛部の尋問拘留所に連れて行かれる。そこで、彼らは、何度も繰り返される違法で性的侵害である身体検査を被る。それから、国家安全保衛部の職員が質問をする。どのように、また、なぜ逃亡したのか、北朝鮮から出る際には誰が手助けしてくれたのか、彼らは中国で何をしたのか、などである。この尋問は通常、4章D.2.で述べられている種類の拷問を含む。

➢ 409
彼らに対する申し立ての性質と背景によって、送還された人たちの運命は国家安全保衛部によって、決定される。大韓民国国民やキリスト教徒と接触したと見受けられた人たちは、地方の国家安全保衛部本部へさらなる尋問のため、送られる。そこから、彼らは裁判もなしに、政治犯収容所(「管理所」)へ直接送られるか、普通の刑務所(「教化所」)に投獄されるかのどちらかである。特に重大であると考えられる場合には、たとえば、大韓民国の情報当局者と接触した場合は、その犠牲者は処刑に直面する。

➢ 410
逆に、ただ食糧や仕事を探しに中国へ行ったと見受けられる人たちは、人民保安省に引き渡される。そこで、通常、尋問が再び始められる。もし、人民保安省がその人は普通の国境横断者であると確認すれば、拘留所(「尋問拘留所」)に留置となる。そこで、拘留され続け、時には数ヶ月になり、その人の故郷の人民保安部員が引き取りにくるまで、拘留したままにする。普通は裁判もなく、数ヶ月から1年、労働訓練所(「労働鍛練隊」)にその犠牲者を留め置く。

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  • 国境警備で働いた元国家安全保衛部員が指摘したことだが、国家安全保衛部は違法に中国へ逃亡した人はいかなる理由であれ、反逆者と考えた。そして、彼らを「人間として扱わなかった」しかしながら、「逃亡者」の最悪のタイプは、大韓民国へ行くことを計画していたか、大韓民国の情報当局者と接触した人たちである。大韓民国情報当局のスパイであると認められた人たちは、常に処刑された。キリスト教徒の場合は、国家安全保衛部はその人がどのくらいの期間、キリスト教徒であったのか確かめようとした。彼らは状況に着目した。たとえば、その人が北朝鮮に聖書を持ってこようとしたかどうかなどである。そのような場合、その人たちは典型的に裁判なしで刑務所に送られた。
  • ある元安全担当役人は、上司から「逃亡者」を3グループに分類するよう命令をうけた、と語った。第一のグループは北朝鮮に戻るつもりで、食糧のためにのみ、国境を越えた人たちである。彼らは、3から6ヶ月労働所へ送られた。第二のグループは大韓民国に行き着こうという意図をもって、北朝鮮を出た人たちである。彼らは普通の刑務所(「教化所」)に送られた。第三のグループは、キリスト教のグループか大韓民国の情報ネットワークに与えられた手段を使って、大韓民国に行こうという意図をもって、北朝鮮を出た人たちである。彼らは政治犯刑務所(「管理所」)に送られることになった。「逃亡者」の公開処刑は政治的に都合の良い場合は実行された。
  • 別の元国家安全保衛部員が指摘するには、中国から強制送還された人たちと、自分の意志で北朝鮮に帰ってきた人とは全く違う扱いであった。彼らは教会と接触したか、あるいは、大韓民国国民と接触したか、について尋問されることになった。

そして、もしそうなら、彼らは国家安全保衛部の地方本部に送られ、そこから管理所(政治犯刑務所)に送られた。そのほかの人たちは、人民保安省の施設に送られ、そこから、普通の刑務所(教化所)に送られた。

(ⅰ)尋問の最中の拷問と非人間的扱い

➢ 411
調査委員会は、国家安全保衛部と人民保安省によって行われた尋問の最中、尋問者が、その犠牲者は真実を述べ、愚行のすべてを告白したと確信するまで、ひどい殴打や他の形の拷問が組織的に行われた。まれに例外はあったが、調査委員会によって質問をされた100人以上の中国からの送還者のすべての人が、尋問の間、殴られたり、よりひどい拷問を受けたりした。国家安全保衛部や人民保安省の尋問拘留所を特徴づける非人間的拘留は拘留されているものが、確実に生き延びるため、早く告白するよう圧力を強めているのだ。

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➢ 412
尋問の局面で、容疑者は飢えや飢餓を起こすよう仕組まれた量の配給を受け取った。

ある尋問拘留所では、収容者はまた、農業や建築で強制労働につかされた。これは、有罪と認められていない人に強制労働を課すことを禁止している国際規範に、確かに違反する。尋問されていない、あるいは働いていない収容者はしばしば異常に込み合った部屋で決まった姿勢で一日中、座るか跪いていなくてはならない。彼らは許可なしに、話したり、動いたり、見まわすことは許されない。これらの規則に従わなかった場合は殴打や配給食糧のカット、強制運動によって罰せられる。罰はしばしば、集約的に部屋の者全員に課せられるのである。

  • キム・ソンジュ氏はロンドンの公聴会で、「もし私が北朝鮮で強硬な態度をとったら、私の扱いは(まるで私は)人間以下であろう…尋問の過程で、彼らは私を叩いた。なぜなら、彼らは私に韓国人と接触したかどうか、私が何か宗教的行為にかかわっているのかどうか、尋ねたが、私の答えは、いいえ、だったからである。彼らは私を何らかの罪にあてはめようとした。そして私を(まるでわたしが)人間以下のように扱った。」
  • ジ・ソンヒ氏は2000年に家族を養うため、食糧を探しに、初めて中国へ行った。

彼は北朝鮮に再入国したあと、国境から4キロのところで警察に逮捕された。彼は質問され、中国で韓国のラジオを聞いたかどうか、大韓民国国民と会ったかどうか、キリスト教徒やメディアの人間かどうか尋ねられた。彼の尋問者は彼をたたいたり、苦しめたりした。中国で食べ物を物乞いする身体障害者として、もし、外国の報道機関が彼を見たら、北朝鮮に恥をもたらすことになるだろう、と言った。彼はついにけっして中国にもどらないという条件のもと解放された。

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➢ 413
ジ氏は2006年に大韓民国へ行く意図で3度目となる中国行きを決行した。ジ氏ははじめ、彼の父がそこで彼と合流するのはよいアイデアかどうか決めるため、大韓民国に到着したかった。一度大韓民国に落ち着くと、彼は父と連絡をとろうとした。しかしながら、彼の父は国境を越えようとしている間に逮捕されたとわかった。さらに、彼の父は尋問され、国家安全保衛部に拷問され、それから、ほとんど死にそうな状態で、荷車で家に帰った。

    • A氏は自分の妹について話した。彼は北朝鮮の知り合いから聞いたのだが、自分の妹が送還され、そのあと、耀徳郡収容所に送られる前、尋問中、拷問された。彼女は、ひどい扱いを受け、厳しい刑を宣告された。なぜなら、彼女はキリスト教徒を布教しており大韓民国へ行く意図を持っていたからである。
    • ジ・ヘオン A さんが3度目の送還で経験した扱いはもっともひどかった。裸の検査の間、服を脱ぐことに抵抗しただけで殴打された。彼女は教会に通ったか、あるいは大韓民国国民と会ったかと聞かれた。彼女は否定する答えをしなければならないとわかっていた。そうしなければ、管理所(政治犯刑務所)に送られるか、処刑されるだろう。彼女はこれらの「罪」を告白しないという理由で殴打された。ついに教化所(普通の刑務所)に送られる前、尋問拘留所に送られた。
    • ある証人は国家安全保衛部尋問所で2週間尋問された。彼女は答えるのが遅かったり、尋問者が彼女の答えを気に入らなかったりすると、棒でたたかれた。彼らは最大限の痛みを引き起こすため、彼女のすねを蹴った。彼女は他の人たちも叫び声をあげているのが聞こえたので、同じ運命を被っているのだと思った。

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  • 別の証人は国家安全保衛部によって、保留施設で6週間尋問を続けられた。彼女を尋問した国家安全保衛部の役人は彼女が大韓民国国民かキリスト教徒と接触したか見つけ出すため、彼女を打った。この施設では、証人は、以前何度か逮捕されているので、明らかに守衛が知っている18歳の少女の髪を引っ張ったり、たたいたり、足で踏みつけたりしたのを見た。6週間後、証人は国家安全保衛部尋問拘留所に送られた。そこでも彼女はまた、叩かれ、大韓民国国民や教会と接触したこと、国境を越えるのを彼女のためにお膳立てした人を告白するよう仕向けられた。拘留センターでは証人や他の拘留者が尋問されないとき、あるいは仕事がない時、両手を後ろに回して、頭を下にたれて、ひざまずいていなければならない。守衛に質問されるときでさえ、同じ姿勢が維持されていなければならない。一度、証人があやまって上を見上げたら、看守に胸を重いブーツで蹴られた。靴がない老女が仕事をするため、靴を頼んだら、国家安全保衛部員に靴をはくに値しない、拘留者は畜生だから、すぐ死ぬものなんだ、と言われた。老女は看守に叩き上げられ、血を流していた。
  • ある証人が、尋問拘留所で中国から送還された他の人たちと拘留されている間、国家安全保衛部がある若い女性を尋問したとき、彼女が祈りの形に手を組み合わせているのを見た。国家安全保衛部は、彼女はキリスト教徒であると疑った。彼らは彼女を別の部屋に連れて行き、告白するまでたたいた。彼女の部屋のすべての拘留者が彼女が告白するまで、眠るのを許されなかった。その後、彼女に何が起こったか、その証人は知らない。また、国家安全保衛部がある家族に彼らは中国のキリスト教徒と接触したため、政治刑務所に連れて行くといっているのが聞こえた。

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➢ 414

他にも数人の証人たちが、北朝鮮へ送還され、尋問されたときの彼らの経験について同様の説明をした。拘留中に熱が出て、病気になったある証人は、病気のふりをしていると非難され、さらに厳しくたたかれた。

(ⅱ)女性への性的暴力とその他の屈辱的行為、特に度を越えたボディチェック

➢ 415
尋問拘留所に到着するや、送還された人たちは裸で身体を動かす行為と度を越えたボディチェックに従わされた。この取り扱いは、裁判所で使われる証拠をとると言うよりも、犠牲者たちから隠された金を押収したり、盗んだりすることを意図している。

そういう事情なので、この検査は証拠をつかむことを目的であるためだけに検査を許している刑事訴訟法の第143条に違反している。特に、女性の犠牲者に関しては、検査はわざと屈辱的で不衛生なやり方で行われた。

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➢ 416
犠牲者たちは、しばしば異性である他の看守たちだけでなく、ほかの拘留者の前で、服を脱ぐことを強制された。それから、裸のまま、「押し出し」として知られている行為である、「スクワット」を何回もやらされた。これは、膣や肛門の中に、隠されているかもしれないものを落とさせることを意図している。委員会は送還された人たちから、守衛たちが、彼女たちの服から金や金目のものを探している間、裸になって、グループでスクワットをしなければならなかった話をいくつか聞いた。

  • ある証人は拘留施設の外にとても大きい溝があって、それは裸の検査のために使われたと述べた。

「拘留者たちは穴に入って、服を脱ぐように言われた。私たちは服を看守に渡さなければならず、彼らは気に入れば、自分のものにするのだった。私たちは無理やり飛び跳ねたり、しゃがんだりして押し出す行為をさせられた。それから、誰かがみんなの膣と肛門に手を入れて、お金や金目のものがないか、調べた。このとき、私たちは男も女も一緒だった。身体検査の後、私たちは部屋で四つん這いの姿勢を強いられた。」

  • Pさんは15日間中国当局に拘留された後、送還された。送還されるやいなや、国家安全保衛部に裸の検査をされ、100回しゃがんだり、立ったりさせられた。彼女は気を失うまで、質問され、殴打された。
  • 北朝鮮に移送されると、ある証人と他の女性たちは北朝鮮役人によって裸の検査をさせられた。女性たちは、女性の看守によって、検査されている間、頭の後ろに手をあげていなければならなかった。そのあと、なおも裸のまま、100回スクワットをしなければならなかった。

➢ 417
送還された女性はまた、不衛生な膣の検査に従わされる。普通の看守たちは、しばしば、複数の女性に同じ手袋を使ったり、全く手袋を着けなかったりして、金をさがして収容者の膣に手を入れる。場合によってはそれらの検査が男性によって、行われる。

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拘留の間中、看守たちは収容者たちが、身体の穴にかくされた金を持っていないか密に監視し続けた。看守たちはまた、収容者たちが排泄物に隠したかもしれないものもさがす。収容者たちは、そのような検査が行われるため、排泄しないのだといって、殴られた。

  • キム・ユンファン氏は中国で、彼らに手助けすることも含め、北朝鮮の元国民といっしょに働いているが、送還された人が、特に女性が直面した非人道的扱いについて、たくさんの証言を聞いた。女性たちは無理やり裸にされて、身体の中に隠されているものを見つけられるか、確かめるため、何度も(「ポンピング」)スクワットをさせられた。同じ目的で、膣や肛門を含め、手でからだの穴を調べることが実行される。男性がそのような検査を女性収容者にする例もある。
  • ジ・ヘオン A 氏は一人の妊娠している女性も含め、何人かの北朝鮮の女性と一緒に検挙され送還された。国境への移動の間、彼女たちが乗っているバスで、産気づいて赤ん坊を産んだが、彼女は出産の間に亡くなった。その母親も含め、送還された人たちは、男性による、手で行われる身体の穴の検査も含め、身体検査をさせられた。そして、何度もしゃがんだり、立ったりさせられた。Jee さんは、委員会に、その検査は、「女性として、辱められている、と感じた。逮捕されたとき、裸にされ、膣まで、私たちの身体を調べ、繰り返し、しゃがんだり、立ったりさせた。」と話した。
  • キム・ソンジュ氏は茂山の人民保安省尋問所で、中国から送還された10人の女性たちが、女性役人の前で、一列に並べられ、次から次へと膣に手を入れられたのを見た。キム氏はまた、看守が、割り当て部屋のリーダーとして、隠された金を探すため、収容者の排泄物を見るよう命じたことを覚えていた。看守たちは、見つけられた金はすべて、取り上げた。

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  • ある証人は新義州市の国家安全保衛部拘留所で金を取ることを意図した役人によって、検査されたことを覚えている。地位の高い年上の女性役人が、それぞれの犠牲者に同じ手袋を使って、検査を行い、その証人は感染症の病気にかかった。地位の高い役人は膣に手を入れながら、言葉でも若い女性を卑しめた。
  • 他の証人も看守が、穏城の国家安全保衛部尋問所で、中国から送還されたほかの女性と彼女に、膣検査をした時、繰り返し、同じ手袋が使われた、といった。その女性も裸のスクワットをさせられた。
  • 他の証人も彼女が、北朝鮮に再入国したとき、肉体的に虐待されたことについて、委員会に話した。彼女や他の女性たちは、拘留施設に連れていかれ、そこでは、男性と違う部屋に入れられた。そして、洋服や身につけている物すべてを取り除かされた。彼女たちは足を開いて、仰向けに寝かされ、侵害的な徹底した検査が、金、手紙、電話番号を探している看守たちによって、行われた。ゴム手袋をしている女性の看守が身体の穴の検査をおこなった。他の看守は検査が行われている間、施設の開いている窓から、彼女たちを見て、笑っていた。証人はクレジットカードを隠していて、捕まった男性は別室に連れて行かれ、ひどく叩かれた、と聞いた。一ヶ月後、その証人は、別の拘留所に移された。そこで、もう一度、徹底的な身体検査に従わされた。彼女のグループに年をとった女性と臨月が近い女性がいた。二人とも、身体的、および言葉での虐待を免れなかった。彼女たちは100回しゃがんだり、立ったりさせられた。老女は弱かったので、これができなかった。女性看守は、彼女が倒れるまで、彼女を蹴飛ばした。そして、彼女の隣に立っていた妊婦の拘留者も倒された。妊婦の拘留者は痛みの真っ只中であったが、看守は彼女をののしり始め、彼女のお腹の中には、中国人の赤ん坊がいると叫んだ。看守はついに彼女を拘留所の医療施設に連れていった。妊婦の拘留者は3日後に戻ってきたが、もはや子供はお腹にいなかった。彼女はほかの拘留者に、流産したと言った。

➢ 418
調査委員会は身体の穴の検査は、拘留その他の施設で証拠を集めたり、安全を確保したりする目的においては、状況によってする必要があると認められる。しかし、合法性、均衡性、人間的なプロセスは守られなければならない。法によって、許可されていることに加え、適切な訓練を受けた、資格のある人によって、合法的目的で、必要、均衡的、人間的、衛生的な方法で行われなければならない。

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➢ 419
委員会は北朝鮮で行われた検査のタイプはこれらの基準が不足しているとみている。送還された人たちは、組織的に侵害的身体検査に従わされ、それは、ほかの収容者の前で、普通の看守によって、行われ、送還された人たちが持ち帰ったかもしれない金を盗むことを第一の目的としている。そのような検査は、証拠を集める目的のために許している、北朝鮮刑事訴訟法の下で、違法である。そして、刑事訴訟法のもとで罪を構成する。抵抗する人たちは打たれて、服従させられる。

➢ 420
女性または時に男性看守が、犠牲者の膣に手を挿入することは、身体的侵害を伴う。国際法は犠牲者の性器を加害者の身体の一部分で開くという正当化されない強制的侵害を性的暴行と考える。検査をとりまく全体的な屈辱的な状況を考慮すると、合法的目的の欠如、穴の検査に関する国際的基準を尊重していないことから、委員会は多くの例で検査は国際訴訟法の下で、定義される性的暴行になるとみなしている。

➢ 421
裸の検査、裸での強制的なスクワットの繰り返しや膣の検査に加え、送還された女性たちはまた他の形の性的暴力を被ってきた。

  • 中国からトラックで送還される間、ある女性は北朝鮮当局の者が他の女性の胸を触っているのを見た。当局の者はその証人が彼を見たことに気付くと、彼女を平手打ちした。
  • 別の証人は委員会に、送還者のための拘留所で、女性は日常的に性的虐待を受けていたと語った。裸のスクワットの繰り返しや膣検査を強制させられることに加え、女性たちは看守にむりやり裸にされ、打たれた。

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➢ 422
送還させられた女性たちは、さらに、拘留所で看守によって、非人間的、屈辱的な扱いに従わされた。名誉を傷つけられるマナーで話しかけられたり、わざと辱める扱いを受けたりした、と多くの人たちが報告した。調査委員会はまた、生理用ナプキンが生理中、出血しているときに、取り上げられたという証言も受け取った。

  • ジさんは看守が送還された女性に中国での性体験について聞いた、と語った。
  • 他の女性は調査委員会に、国を出たことによって「国を裏切った」と、くどくど言われたことを話した。そして尋問の間「中国人の男はよかったか」というような特に屈辱的な質問をした、と話した。
  • 他の証人は看守が送還された女性を打ちながら、「中国人の男と寝るのは楽しかったか」と聞いているのを聞いた。
  • ロンドンの公聴会で、委員会はパクさんから、送還のあと、拘留中に苦しんだ屈辱的な扱いについて聞いた。パクさんは裸で検査され、侵害的膣検査と裸のスクワットをさせられた。彼女は委員会に、看守は金を探すため、洋服や生理用ナプキンまでひきさいた。生理用ナプキンがぼろぼろにされたので、パクさんが、生理中に小さなタオルを使っていたが、タオルを洗ったことで、屈辱的に、看守に罰せられた。

「毎朝、私たちは、顔を洗うため、小さな入れ物にいっぱいの水が与えられた。その日だけ、私はそれを汚れたタオルを払うために使った。しかし、それが見つかると、水を不正に使ったとして、罰せられた。私は血のついたタオルを頭からかぶらなければならなかった。それが、その日、一日中の罰でした。」

(ⅲ)拘留所の状態

➢ 423
送還された人たちが尋問され、普通の国境越えをしたと決定されれば、彼らは拘留所(尋問拘留所)に送られる。そして、人民保安省にひきとられるのを待つのである。

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彼らはここで数日あるいは数ヶ月拘留される。時にはこれらが送還された人たちが刑を実行される場所になることもある。拘留所の状態は非人間的である。収容者たちにわざと飢餓を課す方策は続いている。

  • ある証人は調査委員会に、彼女が尋問拘留所に拘留されていた時、一日にスプーン2杯のトウモロコシとボウル一杯の大根のつけものスープを受け取ったと話した。

彼女は2m四方の部屋に約10人でいれられた。地面の穴がトイレとして使われ、拘留者は穴を使う前に、看守に許可を求めなければならなかった。許可なしで使用して捕まったら、拘留者は部屋から引きずり出され、看守に打たれる。もし、拘留者が叫んだり、憐れみをもとめたりしたら、殴打はもっと増えるだろう。証人は第二拘留施設に5ヶ月拘留された。その後、罪を償う場所に移された。

  • 尋問が終わったあと、ある証人は清津拘留所に送られた。彼女はそこに1年拘留させられた。というのは人民保安軍の役人が彼女の故郷から迎えに来なかったからである。罪が宣告されることなく、彼女は強制労働やイデオロギー訓練につかされた。

彼女はシラミがたかった部屋で熱が出て、死にそうだった。

  • 他の証人は委員会に、清津尋問拘留所で5ヶ月過ごした、と話した。そこでの生活は恐ろしく大変だった。収容者は一日に3回スプーン5杯のゆでトウモロコシを受け取っただけであった。野菜も塩もなかった。お湯も受け取った。証人は中国製の洋服を他の収容者が親戚によって送られた余分な食料と交換した。成人は強制的にレンガ積、木材の伐採、農業で一日10時間厳しく働かされた。もし、彼らがその日のノルマを果たせないと、彼らはもっと長く働かなくてはならなかった。当局は、彼はまだ子供だと考えたので、その証人は免除された。彼は、個人的にこの尋問拘留所で、彼がいた間に13人亡くなるのを目撃した。彼らの遺体は包まれて、ほかの収容者に恐怖をしみこませるため、数日放置された。看守たちは言った、「国を捨てるとこうなるんだ」。

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遺体が腐り始めると、ほかの収容者が山に行かされて、そこに穴を掘って、棺桶も葬式も墓のしるしもなく、遺体を放り投げた。看守たちは、拘留者間の規律を確実にするため、常習犯を「規律家」に割り当てた。送還された者たちはこれらの「規律家」によってふつうの犯罪者よりもっと厳しく取り扱われた。ある夜、中国で大韓民国国民と接触した疑いのあった送還された人を死ぬほど殴打した。証人は夜中、休みなく、看守が止めることなく、殴打の音が続くのを聞いた。証人が思うに、看守はその男が打たれて死んでしまうとは予測していなかったであろう。打たれて死んでしまった男には7,8歳の息子がいた。彼は証人と同じ少年部屋に入れられていた。1ヶ月以上拘留された後、子供は孤児院に送られた。

(e)送還された母親と子供たちに対する強制堕胎と乳児殺し

➢ 424
委員会は送還された母親と子供たちに対して、国内および国際法に違反して、強制堕胎や乳児殺しが広く蔓延していることを把握している。強制堕胎は妊娠を臨月まで希望する女性に、彼女の意志に反して要求され、実施される。乳児殺しは出生後すぐに、母親か他の人が乳児を殺すことと定義される。これは、中国から送還された女性の堕胎が失敗した時や妊娠後期で赤ん坊が生きて生まれた場合に行われたようだ。

➢ 425
中国から送還された妊婦や子供たちに対する強制堕胎や乳児殺しのほとんどは、女性たちが収容所や尋問拘留所(拘留場 国家安全保衛部施設)に拘留されているとき、行われている。極端なケースでは、送還された女性とその新生児に対する強制堕胎と乳児殺しは、送還された人たちの集会や尋問や拘留所で女性の妊娠が見つけられなかった場合、普通の刑務所や政治犯収容所(「管理所」)で行われている。妊婦は賄賂や他の手段で、また、送還時に妊娠後期であったため、出産する前に刑務所にすぐ移された場合は、堕胎を避けることができたかもしれない。

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➢ 426
証人の証言は、民族的に混血の子供―特に中国人を父親とする子供たち―に対する北朝鮮の侮蔑が妊婦の強制堕胎や乳児殺しを推進したと指摘する。2次的情報源や証人の証言は、北朝鮮は「生粋の朝鮮民族」への隠れた信望があり、民族的混血(少数民族)の子供たちは、「純粋さ」が汚されていると考えられた、と指摘する。

  • 強制堕胎は、すべての送還された妊婦は中国人の子供を妊娠しているという前提で行われた。女性たちは子供の父親の民族についてきかれることはなかった。
  • 何回か送還され、二人の妊婦が強制堕胎をさせられたのを目撃したある女性は調査委員会に、「もし、中国で妊娠したら、中国人との子供であると思われます。だから、妊娠して北朝鮮に戻った女性は強制堕胎されるのです。」と述べた。もし、すべての妊婦が中国人男性の子供を妊娠しているという仮定で強制堕胎を行うなら、子供の父親の民族を尋ねることのない、当局の仮定は無謀である。
  • 元国家安全保衛部の役人は委員会に、「朝鮮の純血」の概念は北朝鮮の魂に維持されている、と説明した。だから、「100%」朝鮮人でない子供を持つことは、女性が「人間として劣る」ことになる。
  • ある証人は、調査委員会に、ある妊婦が強制堕胎をさせられる前にうけた虐待について証言した。茂山市拘留所で、ほかの言葉や肉体的虐待とともに、看守が「彼女のおなかには中国人の赤ん坊がいる」と叫びながら、妊婦を明らかに虐待しようとののしった。
  • ある証人は看守が穏城市国家安全保衛部の拘留施設で、送還された母親の新生児を取り上げるのを見た。赤ん坊が部屋で母親から生まれるやいなや、医療的処置もせず、看守は赤ん坊をバケツにいれ、「この子は人間じゃない」「純血じゃないから、生きる価値はない」といいながら、連れ去ってしまった。
  • 別の証人は調査委員会に会寧市の国家安全保衛部拘留施設で役人が堕胎を引き起こすため、妊婦の膣に薬品を入れたのを見たと語った。そうしながら、役人は「混血」は絶滅しなければ、と言った。

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  • キム・ユンファン氏は、元北朝鮮の国民と一緒に働き、彼らを中国で援助しているが、ソウルの公聴会で調査委員会の前で証言した。

「強制堕胎と新生児の強制殺人は行われている。中国で妊娠した脱北者は、もし送還されたら、中国人のこどもを妊娠していることで非難され、強制堕胎をうけさせられるか、出産すれば、子供は殺されます。」

➢ 427
純血の朝鮮民族でない子供に対する侮蔑は、当局者たちや警備員たちの間だけでなく、一般的に北朝鮮の社会に存在すると信じられている。元国家安全保衛部の役人の証言によると、強制堕胎は「純血でない」子供を持つことによる、後々の差別から女性を守る恩恵があるとされる理由でもって、行われている。

➢ 428
強制堕胎はまた、北朝鮮を出て、中国で妊娠した女性へのさらなる罰としても意図されている。

  • ある証人は調査委員会に、女性たちは反逆(すなわち、中国に行ったこと)の罰の一つの形として、強制堕胎をさせられた、と語った。
  • 女性グループの元委員は、(彼女の委員としての範囲内で)、送還された女性への強制堕胎を彼女自身、目撃した。北朝鮮に送還された女性を対象にしている強制堕胎の方策があると証言した。中国で妊娠した女性は、その父親の民族にかかわらず、例外なく強制堕胎させられると述べた。しかしながら、これは病院でおこなわれなかった。そうではなく、警備員が妊婦を打ったり、骨の折れる激しい仕事を課したりした。証人はある妊婦が2007年に北部の収容所(尋問拘留所)で国家安全保衛部員に打たれるのを個人的に見た。警備員は妊婦である拘留者の名を呼び、北朝鮮では中国人の子孫は生まれることはできない、と言っていた。係員は言葉の虐待や肉体的に虐待をした。彼女はただちに流産した。胎児は捨てられた。
  • 別の元役人は、(1996年から2000年に)送還された女性に強制堕胎をするようにという特別な指示はなかったが、行った調査員は罰せられるのではなく、賞賛された。

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➢ 429
証人の証言によると、収容所(尋問拘留所(jipkyulso))や尋問拘留所(拘留場(kuryujang) 国家安全保衛部施設)に連れて行かれた女性は強制的に血液検査をさせられた。北朝鮮から逃亡した人たちとかかわる専門家によると、血液検査はすべての送還された女性に日常的に行われている。この目的はHIVや妊娠を検査するためである。

➢ 430
次の方法が犠牲者たちに強制堕胎を行うため、使用されている。

1.胎児の排除を促すため、物理的力で子宮に外傷を与える。つまり、打ったり、蹴ったり、妊婦の骨盤や腹部に外傷を与える。そのような外傷を与えることは内部出血や内臓への害も引き起こしうる。

2.妊婦に栄養を与えないで、重労働やほかの活動に従事させ、流産や胎盤剥離を起こさせる。

3.薬品や堕胎薬草の使用。一般的に妊娠を止めたり、胎児の排出を促したりするため、手で膣に入れられる。薬草や薬品をこのように使用することはそれらが血流に簡単に吸収されるので、深刻な副作用が起こりうる。(内臓障害や死に至ることさえある。)

4.膣にトングのような器具やとがったものをいれて、胎児を女性の体から取り除くか、排出を起こさせて、力づくで、胎児をとりのぞく。

5.子宮内の胎児を殺す、人工的に胎児の排出を促す、妊娠時期によっては、陣痛をおこさせるため、(経口または注射で)、薬を使用する。未熟児で生まれた子は普通、医療介護なしでは生き延びられないで、その後まもなく死んでしまう。看守が、早産の子供を殺す場合もあった。これらのケースは(母親の意志に反して)人工的に妊娠をとめる看守の行為として強制堕胎と考えられる。そして、赤ん坊は誰の介入もなく、(たとえ、つかの間、生きていたとしても)その後、死んでしまう。

6.外科的胎児の排出(「同意の堕胎」が中国で行われている。)は、医学的に訓練された人によって」(一般的には病院かほかの医療施設で)行われる。

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  • ジ・ヘオン A さんは、送還のあと拘留されている期間の初期に、他の送還された女性に強制堕胎や乳児殺しが行われたのを目撃した。そして彼女自身も3度目の送還の後、拘留中に強制堕胎させられた。ソウル公聴会で、彼女は、調査委員会のまえで証言した。「私は妊娠していることを見つけられました。その時、3ヶ月でした。私は妊娠していることにとても驚きました。そして私は1999年に刑務所で赤ん坊が生まれた時のことを思い出しました。私は同じことがおこなわれると思っていました。[赤ん坊が乳児殺しに遭うのを見なければならないと]しかし、彼らは堕胎をすると言いました。堕胎の意味することは、私に注射をするのではなく、私をテーブルに横たわらせ、すぐに手術をしたのです。大量出血していました。まっすぐに立つことができませんでした。」

ジさんは、テーブルに抑えつけられている間、誰かによって子宮から胎児を力ずくで物理的に排出されたのだった。出血はおびただしい量だったので内部の損傷が心配される。そのあと、彼女はすぐに、刑務所(教化所)に送られた。彼女は出血がひどかったので、責任者は教化所から解放することを決めた。

  • 別の証人は委員会に、彼女は妊娠していたので、強制堕胎をされるだろうとわかっていたと話した。しかしながら、彼女は妊娠8ヶ月だった彼女と同じ部屋の仲間が経験したような手続きが取られると思っていた。その仲間は陣痛を起こす注射をされた。そして、赤ん坊が生まれた時、顔を押しつけて、窒息死させた。しかし、証人は麻酔なしで、ある女性が手と錆びついた器具を使って、強制堕胎をさせられた。

証人は施術の間、痛みで叫んだが、叫ぶのをやめるよう言われた。そのあと、辺り一面の血とバケツの中の堕胎された胎児を見た。この後、彼女は不妊になった。強制堕胎したその日に、彼女は腰の痛みや腹痛があるにも関わらす、仕事をさせられた。彼女は収容所(尋問拘留所)に3ヶ月いて、その後、罪をさらに決めるため、故郷の町へ移された。

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➢ 431
ある証人は清津市収容所(尋問拘留所)で7人の妊婦が強制堕胎されたのを見た。女性たちは横たわらされ、流産を促す注射をされた。

➢ 432
送還された母親が臨月まで赤ん坊を持ちこたえられても出産の前も最中も後もなんの医療援助も与えられない。しかし、同じ部屋の他の女性たちが陣痛から子供の誕生までその母親を助けることはできる。たいていの場合、送還された人がいる拘留施設の看守がむりやり、母親か第三者に赤ん坊を水でおぼれさせるか、顔に布か何かをあてて、あるいは息ができないようにうつぶせにして、窒息死させるように仕向ける。

  • ジ・ヘオン A さんは、ある母親が出産後すぐにこどもを窒息死させられるのを見たのも覚えている。「…妊娠9ヶ月くらいの妊婦がいました。彼女は一日中働いていました。生まれたこどもたちは、たいてい死んでいました。しかし、この場合は、赤ん坊は生きて生まれてきました。その赤ん坊は、生まれた時、泣いていました。私たちはとても不思議に思いました。生まれてきた赤ん坊を見たのは、これがはじめてだったのです。私たちは赤ん坊を見ながら、とても幸せでした。しかし突然、足音が聞こえました。警備員が入ってきて、保衛部のこの警備員は言いました。普通、赤ん坊が生まれると、水を張った洗面器で洗います。しかし、この警備員は赤ん坊を水の中にさかさまに入れるよう言ったのです。だから、母親は乞いました。「私は、赤ん坊はできないだろうと言われていました。でも、実際幸運にも、妊娠できたんです。ですから、どうかこの子を取り上げないでください。お願いですから。」しかし、この警備員は出産したばかりのこの女性を打ち続けました。そして赤ん坊は、生まれたばかりですから、泣いているばかりでした。その母親は震える手で赤ん坊を抱き、水の中に頭から入れました。赤ん坊は泣きやみました。赤ん坊の口から、泡が出てくるのを見ました。出産を手伝った年配の女性がいました。彼女は洗面器から赤ん坊を拾い上げると、静かに部屋から出て行きました。このような種類のことが繰り返し起こっていました。それは、咸鏡銅の清津市の拘留所でのことでした。」

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  • キム・ユンファン氏の組織が女性から集めた証言に基づいて、彼は、ソウル公聴会で子供を殺されるのを見なければならなかった母親たちの恐怖について、証言をした。

「…もし子供が産まれたら、すぐに子供は殺されます。時には、窒息させるため、口と鼻を濡れた布でおおいます。複数の証言があります。時には、赤ん坊の息ができないようにうつぶせにします。これが、赤ん坊を殺す一つの方法です。数分であるいは2,3時間以内に赤ん坊は息ができないので、苦痛で泣くでしょう。それにもかかわらず、赤ん坊の母親はこれを見届けさせられるのです。」

➢ 433
調査委員会は、出産前3ヶ月、出産後7ヶ月の女性の拘留は禁じている国内法に違反して、妊婦も拘留されていると把握している。さらに、強制堕胎と乳児殺しに関しては、女性たちは事実、法の下でなんら保護されていない。

➢ 434
強制堕胎は性的、生殖の権利だけでなく、個人の肉体的、安全保護に対する女性の権利に違反している。女性の生殖能力に反して行われ、強制堕胎と乳児殺しは性をもとにした差別や迫害を伴う。北朝鮮の役人によって行われた強制堕胎や乳児殺しは、性差別や民族的差別に基づいており、市民的及び政治的権利に関する国際規約の第7条のもとで定義されている拷問の基準を満たす深刻な精神的、肉体的苦悩を女性に被らせた。乳児殺しの文書にされているケースは市民的及び政治的権利に関する国際規約の第6条に違反しており、法的に認められない殺人の特に言語道断なケースばかりである。